小僧さんとうさぎと、子どもとAIと
2026/06/24
月に一度の「お御堂参り」がありました。
明照幼稚園では、子どもたちが本堂に集まり、手を合わせ、お祈りをして、その月のお話を聞きます。長い時間ではありませんが、いつもの保育室とは少し違う場所で、少し違う空気の中に身を置く時間です。
さて、六月のお話を何にしようかと考えていました。六月に合う昔話や素話を探してみると、「雨が降らなくて困った」とか、「大雨が降って大変だった」というように、雨にまつわる話が多くあります。たしかに六月らしいといえば六月らしいのですが、よく読んでみると、人間にしろ動物にしろ、生きること、死ぬことに関わる話も少なくありません。雨や水というのは、それだけ生命にとって大切な事であるというのが、良く分かります。
もちろん、それも価値なことです。でも、今月のお御堂参りで、幼稚園の子どもたちに聞いてもらうには、少し重たいかな…と思いました。そこで今回は、季節としては少し前に戻りますが、新美南吉の童話「こぞうのおきょう」をもとにした素話を選びました。
お話の筋は、こうです。
あるお寺で、おしょうさんが病気になってしまいます。そこで、小僧さんが代わりに檀家さんのところへお経をあげに行くことになりました。
ところが、道の途中でうさぎに出会い、遊んでいるうちに、大事なお経を忘れてしまいます。困った小僧さんに、うさぎは何やらお経のような言葉を教えてくれます。
小僧さんは、それを本当のお経のように唱え、何とか檀家さんでのおつとめを切り抜けるのです。
敢えてツッコミを入れるとすれば…大人の目で見て考えれば、なかなか危ない話です。
お経を忘れてしまったことも、うさぎに教わった言葉をそのまま唱えてしまうことも、まじめに考えれば「それでいいのか」と言いたくなります。でも、お話の中では、その少し困ったこと、少しおかしなことが、可愛らしい出来事として進んでいきます。
そして最後、小僧さんは帰り道で、またそのうさぎに出会います。そのタイミングで私は、子どもたちに聞いてみました。
「小僧さん、どうしたかな?」
すると、本堂のあちらこちらから、小さな声が聞こえてきました。
「ありがとうって言った」、「また遊んだ」、「にがしてあげた」、「わかんなーい」…
いろいろなつぶやきがありました。その中で、実に「お菓子をあげれば?」という声も聞こえてきました。
その子が、この話を以前から知っていたのかは分かりません。けれど、たしかに「自分で考えた言葉の響き」がありました。
原作でも、最後はとても素っ気なく結ばれます。「小僧さんは、うさぎにお菓子を分けてあげることを忘れなかった」…恐らく作者にとっては、それだけの表現で十分だったのでしょう。
説明しすぎないのです。小僧さんがどんな気持ちになったのか、そこまでは書かれていません。でも、だからこそ、聞き手が自由に考える余地があります。
幼稚園でお話をする面白さは、まさにこういった所にあります。「正しい答え」を言わせるためではなく、子どもたちが、自分なりにお話の世界に入っていく。登場人物の気持ちを想像してみる。少しずつ、自分の言葉で考えてみる。
「お菓子をあげれば?」という一言の中には、うさぎに何かしてあげたいという気持ちが見えます。大人なら、「うさぎはニンジンじゃないの?」と言いたくなるところかもしれませんが…。
さて、実はこの出来事をブログにまとめようとして、私は一度、作った文章の下読みをAI頼んでみました。
すると、AIはなかなかきれいな分析を書いてくれました。幼稚園らしく、お御堂参りらしく、子どもたちのつぶやきの大切さも、それらしく指摘してきます。
ところが、肝心なところで間違えました。
私が最初に書いたメモには、「最後、小僧さんはうさぎを見つけました」とありました。
この「最後」が大事だったのです。くどいですが、物語の状況が全部描かれたあと、小僧さんがもう一度うさぎに会った場面です。お経を忘れたこと、うさぎに言葉を教わったこと、それで檀家さんでのおつとめを何とか切り抜けたこと。お菓子をもらったこと。その全部があったうえで、「小僧さん、どうしたかな?」と聞いたわけです。
ところがAIは、その「最後」という言葉の重みを読み落としました。ただ「小僧さんがうさぎを見つけた場面」として受け取り、まるで最初にうさぎと出会った場面のように回答してきたたのです。
なるほど、AIはまじめです。とてもまじめに、真っ新な文章を作ろうとします。でも、まじめすぎるがゆえに、こちらが少しぼかして書いたところや、言葉の奥にある文脈を、うまく受け止めきれないことがあります。
人間なら、「最後」と聞けば、「ああ、そこまでの話が全部あったあとのことだな」と感じます。物語の積み重なりを、何となく背負って読みます。でもAIは、ときどき、その「何となく」を落としてしまう。
これは、AIがだめだという話ではありません。むしろ、AIを使ってみることで、私たち人間が普段どれほど文脈を読んでいるのかが、逆に見えてくるのです。
考えてみれば、子どもたちは、こちらが思っている以上に文脈を受け止めています。小僧さんが、ただうさぎを見つけたのではないこと。お経を忘れ、うさぎに教わり、その言葉で何とか場を切り抜けたあとに、もう一度会ったのだということ。その積み重なりを、説明の言葉としてではなく、物語の空気として感じ取っているのでしょう。
だからこそ、「お菓子をあげれば?」という声が出てきたのだと思います。
子どもたちは、作品解釈を難しい言葉で説明しているわけではありません。でも、ちゃんと聞いています。受けとめています。だから、自分の言葉で、自分の考えが述べられるのでしょう。
子どもたちは、こちらが思った通りに答えるわけではありません。大人の期待する「正解」を言うわけでもありません。でも、その自由さの中に、はっとするような受け止め方があります。
AIは文章を整えることができます。ときには、人間よりも早く、なめらかにまとめてくれます。けれど、子どもたちは、文章にはしなくても、物語の重心を身体ごと受け止めていることがあります。
それは、何とも興味深いことです。自分の意見を考えるというのは、何でも好き勝手に言うことではありません。お話をちゃんと聞く。状況を受け止める。そのうえで、自分ならどうするかを考える。それが、子どもたちの中で少しずつ育っている。「知ってる知ってる!〜〜でしょ」という得意げな声でなかったゆえに、それを感じたのでした。
もしかしたら、「どうしたと思う?」を題材に、子ども達のディスカッションがあっても面白いかも知れません。「○○組版 こぞうのお経」って。昔話をそのまま聞き、受け取るのは安心感に繋がると思いますけれど、「自分だったらどうする!?」を話し合ってみるのは、結構エキサイトで楽しい遊びになる…かも知れません。
お御堂参りは、手を合わせる時間であり、お話を聞く時間でもあります。
そして、時々「考えてみる」時間なのです。
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明照幼稚園
住所:
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電話番号① :
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