我慢ということ

先日の『花さき山』をきっかけにして、「我慢」ということを少し書こうと思います。本に出てくる人たちは、みんな「誰か他人のため」に我慢をします。最初に出てくる「あや」。ふたごの「あんちゃんの方」。自分のことより他人のことを優先する姿です。

しかし、言葉がそうであるように、コミュニケーションというのは自分と他者の間にのみ成立する、というものではありません。自分との対話を「思考」と呼ぶのは、その最たるものでしょう。

つまり、「我慢」というのも、自分との間に起こる事があるわけです。誰か他人のために「良かれ」と思うことと、「理想の自分のために、良かれ」ということは非常に似ているわけです。

言葉が、最初は他人との会話を通して獲得され、やがて自らを律し整えていく働きがあるとすれば、それを援用して「自らとの会話の中で、自らを律し、整えていく」ことができるのが人間です。同じように、「他人に対して我慢した自分が、花さき山という形で報われた」経験が、「自らに対して我慢した自分が、同じようにどこかで(敢えて言えば、理想の自分から感謝され)花が咲く」事を感じさせてくれるのではないでしょうか。

究極的に、自分は自らに満足しなければなりません。そのステップとして、「他人に喜んでもらう」「理想の自分に喜んでもらう」ことが自己肯定につながるのではないかと思うのです。

「自分の思いを主張して、それが通って嬉しいな」という状態と遥か隔たった満足感がここにはあるのではないでしょうか。