弔い、という決着

 ゴールデンウイーク中には、ちょっと辛いこともありました。あるクラスで「おたまちゃん」と呼んで飼っていた…オタマジャクシがいたのですが、亡くなってしまったのです。先週は足が出ていたので、今週からは手も出て尻尾が短くなり、いよいよ「ピョンコピョンコするかな?」と楽しみにしていた矢先の出来事でした。
 担任は、「これもいい機会として、命について感じて欲しい」と思ったようですが、子ども達は「すぐ、次の子を探そうよ」とアッサリ話していたそうで、担任としては些かガッカリ…と日誌に書いてありました。
 ところが今朝になって!「子ども達、お墓を作って埋めて、お供えもしてくれたんです」との事。見に行くと、確かに少し入った静かな場所に、お花やらサクランボだのが飾ってありました。「それに相応しい場所」というのは、何となく分かるのでしょうね。
 そして、子どもながらに「お弔いする」、それで決着をつける、というのは(教わったのかも知れませんが)生きる知恵の一つだなぁ、と思いました。「忘れない」ことは大事ではありますが、一方「いつまでもクヨクヨ悲しまない」というのも「生きていくため」に役立つことです。人間は言葉を使うこともあって、一瞬の感情をけっこうキープすることができます。それが良く作用することもあるし、そうでない場面もある。
「お弔いする」というのは、ある意味「悲しみに終止符をうつ」ということ。ゆめゆめゴミに出したりせず、お弔いして欲しいと思います。幼稚園でもお墓でも、場所はありますので。