託す・委ねる

 日本人の特質として、「自分の一票を投票してしまうと、その後の行方について余り頓着しない」と言われることがあります。投票用紙自体の行方とか、当落が決まったあとの政治運営とか。これは、「自分の手を離れた物については、もう拘らない」という一種の美学・潔さがあるのかも知れません。しかし、その美学は妥当なものでしょうか。
 「投げる」という言葉のニュアンスからは確かに「棄てる・手放す」という感じがします。しかし、私たちは票を棄てているのではありません。自らの意思を託し・委ねているのです。これらは、似ているようで全く違う行為だと思います。
 幼稚園の体操では、2人組のものがいくつかあります。抱っこ運び・おんぶ・手押し車・グーパー跳び…いずれも基本的に、子ども同士で行います。年長さんになると特に、「自分と同じ位の体重の子を支える」活動が多くなり、自然と表情も真剣なものになっていきます。抱っこしたり運ぶ側に立って見れば「大事な友達、落とさないぞ!」という気持ちになりますし、乗る方から見れば「頼んだよ、宜しくね」となります。まさしく自らの体を、つまり自らを委ね、委ねられて応えようとしているのがこの運動の一つの側面です。
 何歳で、という事に関わらず、何人かの子にとっては、この「委ねる」という行為が難しいようです。自分でしっかりと持つこと、これはできる。「これはもう、いいや」と手放し、あげてしまうことも。でも、「頼んだよ、委ねるよ」というは苦手。「白でもなく黒でもない」状態ではありますが、そのに対する耐性が充分育っていないのかなぁ…と感じる事があります。
 昔は、「全てのことがお互い様、境界がはっきりしない」というのが世界でした。主たる責任は負っていても、100%ではない。主たる責任は負っていなくても、0%ではない。アナログ的な世界の認識だったのでしょう。そう言えば、今はデジタル時代。「0か1か」の単純な、しかし膨大な積み重ねでできている時代です。「コードの1文字間違っても、プログラムは動かないんだよ。」という不自由さが、世界に広がってきてしまっている気がします。