涅槃と自己責任

nehan 12月の「成道会」に続き、今日は涅槃会。園だよりにも書きましたが、なかなか難しい行事です。基本的に伝えるべきは、あそこで書いたように、

思い通りにならない(=苦しみのある)この世を、それでも自分の力で過ごしていく(その、助けをする)ために、亡くなった方はみんな仏さまになる

 で良いのだろうと思いますが、最近の「自己責任」論とか少し頭をよぎったりして、また悩ましいところです。
 お釈迦様は、「他人を頼るのではなく自らを拠り所とし、法(お釈迦様の教え)を拠り所として生きなさい」と教えたのですが、この場合の「自己」像、もっと言えば「社会との繋がり方」において、今ほど孤立していない時代の「自分を拠り所とし」であることは注意しなければならないと思うのです。
 今日のビデオ(キサーゴータミーの譬喩)にもありましたが、当時は一軒一軒の家にいきなり「芥子の種を分けて貰えませんか」と訪ねることができたのです。今だったらオートロックで玄関先にも辿り着けません。そして、彼女には周りの人たちが間接的に「死者を出したことのない家などない」ということを教えてくれるのですが、今はそんなプライバシーを、つまり真実を語ってくれる筈はありません。私は坊主という立場上、話すことはありますけれども、縁あってのことでしかありません。そんな人が飛び込んできたら、やっぱり警戒するでしょう。

 そう。今の「自己責任論」と、当時の「自らを拠り所に」は違うと言いたいのです。

 然らばその区別というか境界線はどこにあるのか。答えは予めお釈迦様が教えて下さっていて、それは「中道」ということです。社会的制約の多い時代における「自らを拠り所に」は、中道になります。引っ張り合う相手がいるからです。現代という個別化・孤別化している環境にあっては、対極というかバランスを取る相手がいないのです。だから今、世の中に喧伝されているのが「絆」ということなのでしょう。
 でも不思議ですよね。あれだけ「絆」と言っていた人たちが「自己責任」とは。相手が「自然」と「人」という違いなのでしょうか。ふーむ。