明照幼稚園
すでに基本路線として否定されてしまった感のある、文部科学省の「ゆとり」路線ですが、天の邪鬼にも改めて「正解だったのかも」と思います。でもそれは、「ゆとりのない状態・状況とはどんなものか?」の捉え方によるものです。『文芸○○』に、数学者の藤原正彦さんが書かれた文章を読んで、なるほど今の日本人は「経済一辺倒」で来たな、と感じます。それが経済活動に関わる人たちだけでなく、全日本人の考え方を支配していると。実はこれこそ、「ゆとりのない状況・考え方」を生んでいるのではないでしょうか。子どもが消費者の目線で世の中を見たり、効率最優先で考えようとしたり、大人も「それに何の意味が?」と常に問うたり、取りあえず何でも「必要なんですか?」と言ったり。これみんな、「ゆとりのない状態」ではないでしょうか? とすると、それに抗する「ゆとり」とは、「すぐに役には立たないが」の何かを教える、あるいは学ぶ場を提供することではなかったでしょうか。 (さらに…)

遊びの広義な定義

7月 11th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
さて。模倣ということです。「真似っこ」ですね。幼児が色んなことをする、行うのは、受動的であるのみならず、周りの人の行うことを関心を持って注視し、自ら繰り返す・再現する主体的な活動である事が、本質の一つであるように思います。「いないいないバア」をして貰ったことのない子が、自ら「いないないバア」をしないというのは、とても象徴的な話だと思います。 ゆえに、繰り返しが必要。ミスコピーもあるでしょう。試行錯誤と言っても良いでしょう。でも、試行錯誤の最中だから、練習中だから、それとして認められる、許されることは多い、(「子どものすることですから」ということ)、更に大人が思いも寄らない行動、名前のつけられない「遊び」、感動することさえあるのではないかと思います。 …そして今度は、「この時期ゆえに特徴的に育つもの=3つ児の魂百まで」を考えていこうと思います。

試論 遊びを考える

7月 10th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
さっき、ふと思い出した言葉があるのです。それは何年か前の運動会の開会式。当時の園長先生が挨拶しました。「幼稚園ですから、運動会と言ってもウンドウカイゴッコという遊びのようなものです」。この言葉は、何故か頭にこびりついていましたが、何だかスッと入ってきた気がします。 「幼児の生活は、遊びが本質である」とか「幼稚園では子どもの遊びを大切にします」と言っている。そもそも、たドイツのフレーベルという方が、「遊びは大切」と言って始めたのが幼稚園なのです。では「遊びとは何か?」というと、これが時代や地域や社会によって相当色合いを変える物であるのは明白で、大学で勉強した時も、「結局、時代をかけて多くの人が相当考えても、明確に分からないのが遊びというものだ」というコメントをいただいた程です。でも。「模倣」ということが、遊びの本質の1つである気がします。幼稚園の生活は、生活ごっこ。学習も、学習ごっこ。運動も、運動ごっこ。では次に出る質問は?「模倣とは、ゴッコとは何か?」でしょう。

評価軸

6月 11th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
物事は何でもそうだけれど、「どのような軸で評価するか?」というのは結構大切な問題だと思う。それは文脈ということにも繋がっている。 私自身、前は「感じたことをそのまま伝えるのが大切」と思って、「それは周りの人に迷惑だよ」とかズバリ言うのが良いと思ったけれど、最近はそういったネガティブな言葉な言葉について結構気を遣う(遣える)ことを目指している。掲げている「美しい言葉は美しい心を作る」という軸から見れば、決して美しい言葉ではないだろう。でも、吟味されたシチュエーションにおいてのそれは、「戒めの言葉は戒めの心を作る」ということになる。戒めとは、「このまま行ったら良くないから、それを改める」ということで、つまり「引き締まった心を作る」言葉として使うべきだ、ということである。相手に及ぼす効果まで考えないと、「だって、そう感じたから」に陥ってしまう。「美しい言葉」だけに囲まれている、「無垢」な状態ではなく、深みのある言葉の環境の中で、子どもを育てていきたいと思っている。

背中

3月 17th, 2007 | Posted by admin in 保育論 | 行事 - (0 Comments)
先日、幼稚園の卒園式総練習があった。「総練習」何て聞くと「大袈裟な…」という向きもあるかもしれないけれど、一人一人が自分の晴れ舞台を堂々と過ごせるために、大切なものと思っている。 本番では勿論園長先生から証書をいただくのだけれど、練習だから私が代役。何年目だろうか。  それはともかく、ここ3〜4年、証書を貰った子ども達が、サッと振り返り「自分の夢」を宣言して歩き出す、という流れになっている(以前は、捧げ持ちつつ階段を後ろ向きのまま降りるという形。これはこれでスゴイこと)。つまり渡す側としては、子ども達の背中を通してそれを聞いている。で! 本当に語りますよ背中が。今までの暮らしで得た自信が見えます。緊張もしているんだろうけれど、それを押さえつけて、世界に一言もの申す。 素晴らしい一瞬です。そして私にとっては「頑張れよ、また遊びに来いよ」と、そっと呼びかける一瞬なのです…カッコ良すぎるけれど。園長(副園長)冥利に尽きます。

スピード

3月 10th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
先日、来年度から始める課外の「無料体験会」があった。色々あらたな発見があったけれど、その筆頭は「スピード感」であろう。普段は何の理由もなく「子どもにはゆっくりと提示するのが大切」とか思っているが、見事覆された。とにかく早い。でも同時にビックリするのは、それについて行く子ども達の能力。で話を聞くと、「子ども達は心臓が小さくて、早い鼓動で動いている。だから興味もすぐに移っていくけれど、スピードを求めているんです。子どもに合っているんです」という。ガガーン!そうか。繰り返しとセットになっている故だなと思いつつ、手遊びなどで速いテンポを子どもが好むのも宜なるかな(むべなるかな=その通りだ)と思ったりする。「子どもが”良く見なくては”と思うために、背の高い順で並ぶ」に似ているな、このやり方は。きっと脳科学でもその辺りは証明されているんだろう。きちんと調べてみたい。
先日、職員の先生たちと「食育」の研修会がありました。赤堀栄養専門学校の先生にお越し頂いて、「幼稚園としての食育、どうしていきましょうか…」といった辺りのベースとなるお話しをしていただきました。 で、一番おどろいたのはピーマンの話。普段お店で売っているピーマンって、緑色ですよね。私はそれが「完成品」の姿だと思っていました。だから、去年自分で栽培して、最後の1個が赤くなってしまったのを見て「病気にでもなったか」と思っていたのです。しかし!しかぁし! ピーマンは熟すと赤くなるんだそうです。つまり緑ピーマンは未熟な姿。苦い辛いも当たり前だという事です。 でも思えば、食というのは自分の体と健康を維持する、という大切な機能があります。「おいしい、楽しい」も勿論食の一面ですが、健康維持という観点から食を語ることで、子ども達も「納得して」食べようとするカモ知れないな…等と思いました。

スキンシップ

2月 19th, 2007 | Posted by admin in 保育論 | - (0 Comments)
川合月海先生という方があって(故人)、著書によれば日本保育協会・保育科学研究所所長さんなのですが、最近この方の本集めに凝っている。「心のしくみを科学的に解明する」という、結構大それたことを掲げていらっしゃるが、ハッとするような知見が多い。「人間にとって最も大切な欲は”集団欲”、そのために幼児に必要なのは①母親からのスキンシップ、②母親の言葉かけ、③母親の笑顔」とか、「不安や怒りがあると、感情と意志の成長は止まる」とか、かなり明確に、それこそ明文化して述べている。その中で一番「ウッ」と思ったのは「1日に1回を限度に、時には息が出来なくなる位抱きしめると、子どもは安心する。1回につき8秒。」というもの。これは沢山の子どもで実験したんだそうな。5秒…10秒…と。その時の表情から、子どもの満足具合を測定していって、この結論が出たんだそうです。 実験では、母親、看護婦(女性)、父親の順で効果があったんだとか。父の出番はまだ先なのかも知れない。しかし、抱っこしても泣き叫ぶ赤ちゃんに、歌をうたってやると(特に明るい曲)泣きやむ、という経験はたしかにこの説を裏付けていますな。

国語・言葉教育

2月 10th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
今日はお坊さんとして、ご法事…90才で亡くなったお婆ちゃんの1周忌だ。その息子さんは、中学校で国語の教諭をしておられる。ご供養席で国語教育について水を向けてみた。イヤ!情熱的。結構盛り上がってしまった(お婆ちゃんの、お孫さんも塾で国語の講師をしておられるとの事)。 曰く「小学校入学時、国語が好きな子は8割なのに、卒業時には2割になってしまっている」。普段の生活で使う「言葉」なだけに、「好き」な子が減っていくのはとても問題だと思う。そして、そのキーは漢字だ、と先生は話していた。「読んで、意味が分かって、書けて」できた、とするのが今の教育だけど、「読んで、意味が分かって」の時点で良しとしてもいいのではないか。普段使いの言葉をきちんと漢字で読めることが大切ではないか? おっ!その通り!! 漢字「を」教えるのではなく漢字「で」教える。その発想の転換は幼児教育でも共通すると思っている。

国語・言葉教育

2月 10th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
今日はお坊さんとして、ご法事…90才で亡くなったお婆ちゃんの1周忌だ。その息子さんは、中学校で国語の教諭をしておられる。ご供養席で国語教育について水を向けてみた。イヤ!情熱的。結構盛り上がってしまった(お婆ちゃんの、お孫さんも塾で国語の講師をしておられるとの事)。 曰く「小学校入学時、国語が好きな子は8割なのに、卒業時には2割になってしまっている」。普段の生活で使う「言葉」なだけに、「好き」な子が減っていくのはとても問題だと思う。そして、そのキーは漢字だ、と先生は話していた。「読んで、意味が分かって、書けて」できた、とするのが今の教育だけど、「読んで、意味が分かって」の時点で良しとしてもいいのではないか。普段使いの言葉をきちんと漢字で読めることが大切ではないか? おっ!その通り!! 漢字「を」教えるのではなく漢字「で」教える。その発想の転換は幼児教育でも共通すると思っている。