明照幼稚園

ピーター・パン

7月 23rd, 2008 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
夏休みになって、東京国際フォーラムのミュージカルを鑑賞してきました。流石に、お母さんと子どもたち・アンドお祖父ちゃんお婆ちゃんがたくさんいらっしゃっていました。大人になってから・久しぶりに見ると、ストレートなだけでない、見方ができる自分に気づきます。  やはり圧巻は最後でした。ウェンディたちがロンドンに戻ってからン十年。ピーターが再び戻ってきます。そこに居たのは、(本当の)母親となってしまったウェンディ。彼女はもうネバーランドへは行けません。大人になってしまったからです。するとピーターは、ガーン!彼女の娘を誘って、さっさと飛んでいってしまうのです!!見送るウェンディの後ろ姿…花嫁の母親、そのものです。 (さらに…)

子どもの一番の願い

7月 15th, 2008 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
この間、お寺のお参りで聞いた話。その方は、娘さんがもう30代ですので、「その昔」幼稚園のお母さんでした。その同窓会(お母さんの)があって、色々話が出たそうですが、最近になって、ある娘さん(つまり30歳位)が、「実は私、小さい頃とてもいじめられていたの。だけど、お母さんに心配掛けたくなくて、黙っていたのよ」と言ってくれたのだそうだ。何年間、胸にしまっていたのだろう…そして、言えて良かったですね。 (さらに…)

七夕のポピュラーさ

6月 3rd, 2008 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
昨日から6月に入り、幼稚園では「七夕製作」が少しずつ始まる。同じ「1枚の紙」から、いろんな飾りができてゆくのは、まさに「手を加える」ことの醍醐味、過程次第で結果が変わるということを、とてもストレートに見せてくれる。 製作に入る時には、その導入を必ずするのだが、「七夕」と言われてピント来ない子が増えてきたような気がする。恐らく、現代の家庭では殆ど実感を持てない行事になってしまっているのだろう。 思うにこれは、商業主義と結びつけなかったからではないだろうか。特定の人形が売れる訳でもなし、多くの人が移動するでもなし、プレゼントを貰うわけでもなし。笹の入手が難しい、といった理由ももちろんあるだろう。でも、シンプルに「織姫、彦星の幸せを願う」「自分のワザの上達を願う」行事。そのシンプルさと純朴さを、大切にしたいと思う。

落語

4月 14th, 2008 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
お御堂まいりの、素話の練習にと思って、落語のワークショップへ行ってみました。 と言っても、要点としては登場人物の使い分けと、小物の使い方。顔を振って表現する、というのは聞いていましたが、意識的に行うのはなかなか難しいものです。そのうち、「アレ?この人どっち向きに決めたんだっけ?」という風になってしまいました。うーむ。右と左しかないのに。そしてネタを覚えるというのも、人間かなりいい加減であることに気づきました。枕の話から丸覚えしようとするのですが、一字一句覚えるのは、相当大変です。「大凡、こんなことを言っている」というあらすじは結構簡単なのですが、丸のまま、というのは難しい。2文でもだめです。落語としては筋が通ればいいのですが、この「丸おぼえ」の力が相当落ちていることの実感に、ちょっとがっくり来ました。 (さらに…)

反対と否定

2月 2nd, 2008 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
この2つは、似たような働きをすることが多い。多いのだけれど意味合いは違う。この間、特別保育で「形容詞」を扱った時に感じたこと。 例えば「近い」の反対は?と聞くと、「近くない!」の答え。うーん、それは否定であって反対ではないのだが…。その調子で「広くない」「高くない」「良くない」と続きました。形容詞は、対になる言葉があって初めて軸というか概念のできるもの。「広い」「狭い」から「面積・広さ」という捉え方ができるのです。むむー 「反対」ということ自体が分かっていないのでしょうな、きっと。 あと傑作は「広いの反対? い・ろ・ひ」それはね、言葉遊び。 と、ここまで来て気づいたのは、「いつかこれ書いたことあるような…」でもこの傾向は年々強くなっている気がします。
すでに基本路線として否定されてしまった感のある、文部科学省の「ゆとり」路線ですが、天の邪鬼にも改めて「正解だったのかも」と思います。でもそれは、「ゆとりのない状態・状況とはどんなものか?」の捉え方によるものです。『文芸○○』に、数学者の藤原正彦さんが書かれた文章を読んで、なるほど今の日本人は「経済一辺倒」で来たな、と感じます。それが経済活動に関わる人たちだけでなく、全日本人の考え方を支配していると。実はこれこそ、「ゆとりのない状況・考え方」を生んでいるのではないでしょうか。子どもが消費者の目線で世の中を見たり、効率最優先で考えようとしたり、大人も「それに何の意味が?」と常に問うたり、取りあえず何でも「必要なんですか?」と言ったり。これみんな、「ゆとりのない状態」ではないでしょうか? とすると、それに抗する「ゆとり」とは、「すぐに役には立たないが」の何かを教える、あるいは学ぶ場を提供することではなかったでしょうか。 (さらに…)

遊びの広義な定義

7月 11th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
さて。模倣ということです。「真似っこ」ですね。幼児が色んなことをする、行うのは、受動的であるのみならず、周りの人の行うことを関心を持って注視し、自ら繰り返す・再現する主体的な活動である事が、本質の一つであるように思います。「いないいないバア」をして貰ったことのない子が、自ら「いないないバア」をしないというのは、とても象徴的な話だと思います。 ゆえに、繰り返しが必要。ミスコピーもあるでしょう。試行錯誤と言っても良いでしょう。でも、試行錯誤の最中だから、練習中だから、それとして認められる、許されることは多い、(「子どものすることですから」ということ)、更に大人が思いも寄らない行動、名前のつけられない「遊び」、感動することさえあるのではないかと思います。 …そして今度は、「この時期ゆえに特徴的に育つもの=3つ児の魂百まで」を考えていこうと思います。

試論 遊びを考える

7月 10th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
さっき、ふと思い出した言葉があるのです。それは何年か前の運動会の開会式。当時の園長先生が挨拶しました。「幼稚園ですから、運動会と言ってもウンドウカイゴッコという遊びのようなものです」。この言葉は、何故か頭にこびりついていましたが、何だかスッと入ってきた気がします。 「幼児の生活は、遊びが本質である」とか「幼稚園では子どもの遊びを大切にします」と言っている。そもそも、たドイツのフレーベルという方が、「遊びは大切」と言って始めたのが幼稚園なのです。では「遊びとは何か?」というと、これが時代や地域や社会によって相当色合いを変える物であるのは明白で、大学で勉強した時も、「結局、時代をかけて多くの人が相当考えても、明確に分からないのが遊びというものだ」というコメントをいただいた程です。でも。「模倣」ということが、遊びの本質の1つである気がします。幼稚園の生活は、生活ごっこ。学習も、学習ごっこ。運動も、運動ごっこ。では次に出る質問は?「模倣とは、ゴッコとは何か?」でしょう。

評価軸

6月 11th, 2007 | Posted by admin in 保育論 - (0 Comments)
物事は何でもそうだけれど、「どのような軸で評価するか?」というのは結構大切な問題だと思う。それは文脈ということにも繋がっている。 私自身、前は「感じたことをそのまま伝えるのが大切」と思って、「それは周りの人に迷惑だよ」とかズバリ言うのが良いと思ったけれど、最近はそういったネガティブな言葉な言葉について結構気を遣う(遣える)ことを目指している。掲げている「美しい言葉は美しい心を作る」という軸から見れば、決して美しい言葉ではないだろう。でも、吟味されたシチュエーションにおいてのそれは、「戒めの言葉は戒めの心を作る」ということになる。戒めとは、「このまま行ったら良くないから、それを改める」ということで、つまり「引き締まった心を作る」言葉として使うべきだ、ということである。相手に及ぼす効果まで考えないと、「だって、そう感じたから」に陥ってしまう。「美しい言葉」だけに囲まれている、「無垢」な状態ではなく、深みのある言葉の環境の中で、子どもを育てていきたいと思っている。

背中

3月 17th, 2007 | Posted by admin in 保育論 | 行事 - (0 Comments)
先日、幼稚園の卒園式総練習があった。「総練習」何て聞くと「大袈裟な…」という向きもあるかもしれないけれど、一人一人が自分の晴れ舞台を堂々と過ごせるために、大切なものと思っている。 本番では勿論園長先生から証書をいただくのだけれど、練習だから私が代役。何年目だろうか。  それはともかく、ここ3〜4年、証書を貰った子ども達が、サッと振り返り「自分の夢」を宣言して歩き出す、という流れになっている(以前は、捧げ持ちつつ階段を後ろ向きのまま降りるという形。これはこれでスゴイこと)。つまり渡す側としては、子ども達の背中を通してそれを聞いている。で! 本当に語りますよ背中が。今までの暮らしで得た自信が見えます。緊張もしているんだろうけれど、それを押さえつけて、世界に一言もの申す。 素晴らしい一瞬です。そして私にとっては「頑張れよ、また遊びに来いよ」と、そっと呼びかける一瞬なのです…カッコ良すぎるけれど。園長(副園長)冥利に尽きます。