明照幼稚園

塗り尽くす!

6月 20th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (塗り尽くす! はコメントを受け付けていません。)

写真の子と話の子はことなります。

 今日は年中さんの活動を近くで見ていました。「すいかのはじき絵」ということで、ある意味「昔ながらの活動」ではあります。先に描くクレヨンは、しっかり濃く色がでており、バッチリ弾いてくれそうな感じです。
 いよいよ絵の具の出番です。こちらは全員が一式持っている訳ではないので、机2台で8人ずつ行っていきます。クレヨンに比べて、絵の具(筆)は軽い力でスーッと塗っていけるのが特徴ですね。色も少し淡くて、確かに対照的です。
 ということで、サッサッと塗りおえていく子がいる一方で、「園長先生、もっと濃く塗りたい」というリクエストがありました。「ん?」と思いつつ、筆に絵の具を直づけ。「これでやってごらん」と渡しました。
 そう。「クレヨンに弾かれないよう、懸命に絵の具を(濃く)塗り重ねていた」のです。「悔しいなぁ、何とかこの色で塗りつぶしたいのに、このこの!」という感じ。くっきり描かれたクレヨンの線は、絵の具を水玉のように弾くばかり。そのうち「紙が危ないな…」を心配するほどになりました。
 暫くは力ずくで「何とか色をのせる!」という感じだったのですが、最後は何だか「やり遂げた…」という感じで、「もういい」と終了宣言。良かったじゃないか。サッと描いてパッと終わるより。これも一つの試行錯誤。よい学びです。

籤という公平性

6月 7th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (籤という公平性 はコメントを受け付けていません。)
 先週末から、年少さんの「机分け」にクジ引きが始まったようです。これもチャレンジングなところがあって、「クジという物を理解できるのか?」を見極めないとできません。そして、「クジ引きでお隣さんが決まっても大丈夫」という判断も。
 今までは、先生がいろいろと子どもの状況を勘案して指定席にしていました。「自分のお印はこれ!」というのは比較的早く理解してくれることもあり、それぞれの距離感も考えて。
 「そうでなくともよい」というのは(多分)、子ども同士のコミュニケーションが洗練されて来たという事なのだろうと思います。「ある程度、どの組み合わせでも大丈夫」という…。
 しかしもう一方で「クジの結果を受け入れる(だけの成長がある)」というのも見極めポイントです。特にいまどき、「自分の意見を言わない」状況は理不尽でもあり、苦痛になりがち。なにせ「生きる力とは、自分の意見を述べることを含む」のですから。
 そこに来て「自分の席は運任せ。どこになるか意見は言えません」ですから。

 けれど思うのです、「これも一種の公平さだな」と。
 もちろん全員の席はあるのです。「外れたら廊下」でもない。全員が同じ「ひとり一座席」なのです。
「先生の近くがいい」「○○ちゃんの隣がいい」…いろんな思いはあるでしょうけれど、ひとまず全員表明せずに、自分で引いた色の机に行く。「行った場所で楽しみましょう」という、ある種余裕のある状態…つまり「大丈夫」…になった、という成長の姿でもあるのです。
 自分の意見を言えないという理不尽はありますが、それ=「机を決めること」にまで拘らなくてもいいのではないかと思います。そういう「時期」があってもいい。けれどそれは一過性のもの。「いつまでも拘らない」は「いつまでも引きずらない」に通じているような気もします。
 「拘りを持つ」こと自体は否定しませんし大切だと思います。しかし、「拘るだけの価値」をどこに見いだしているのか、「拘るだけの価値があるか否か」をどう判断するか?「拘るべきものに拘れているか?」
 私が心の隅に置いている「生きる力」の一つです。

物語と現実と

6月 5th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (物語と現実と はコメントを受け付けていません。)
 今日もお御堂参り。楽しい話、短い話と進めてきて、そろそろ「メリハリをつける」をねらいたい時期です。ま、それでほぼ最終段階なのですけれど。
 そこで選んだ話は「おろかな蛙」身も蓋もないタイトルですが。イソップ童話ですから、もう2500年も前の作品。仏教とほぼ一緒ですか…。
 ストーリーは皆様ご存じの通り、最後に破裂してしまったお腹に絆創膏を貼って、「無理な背伸びはするもんじゃない」と終わる訳ですが、子どもたちはそんな教訓よりも「そこで、お母さん(お父さんというバージョンもあります、念のため)蛙は思いっきり息を吸い込みました。スーハースーハー、そして、ボヨーン」その描写に大喜びです。
 やる度に「スーハー」が増えていくこと、「ボヨーン」の音のおもしろさ、話者の表情など相まって、面白いのでしょうね。こちらも分かっていつつも真剣に、「どう?この位の大きさ?」と、ちょっと苦しそうな声で聞いたりします。
 教訓はともかくとして、印象的だったのは「パチーンと、破れてしまいました」のところ。水を打ったようにシーンとして、「どうなるんだろう?」と…まさに固唾をのんで見守ってくれました。子どもの蛙が治療してくれて一安心。最後に親子で見に行ってエンドのような気もしましたが、「治療しました」で子どもたちも安心したようです。
 さて、この物語。実際に蛙がそんな自殺行為をする訳はないのですが、子どもたちはきっと肌身に感じて心配していたのでしょうね。つまり本気だったのではないかしら。「蛙がそんな事する分けないじゃないか。第一日本語を話すわけないだろう」というのは小学生以降の感性。そのツッコミは成長の証でもあるのですが、幼児にとっては「気持ちを寄せる体験」をした事として大切なのだろうと思います。自分たちが実際に無謀なことをする…というのは(たまに見かけますが)危険も伴います。なのでこうした「物語」を通じて共感し、心情を育てているのではないかと思います。
 現実には、けがをした友達を心配する姿がよく見られます。「自分も痛いときに心配してもらった」というのが一番強い要因であろうとは思いますが、物語を通じて学んだ価値観を現実で復習している、そんな姿にも見えるのです。

何代目?

6月 2nd, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (何代目? はコメントを受け付けていません。)
 幼稚園のブランコ…「金具を留めている穴が、少し大きくなったようです。そろそろ交換では?」と先生から話がありました。見ると確かにグラつきがでていました。早速大工さんに相談です。
 見るとすぐに材質も分かってくれました。「同じ大きさ・同じ穴でいいですね?」「ハイ、お願いします」ということで加工にかかっていただきました。
 暫くして「出来ました」、持参して金具を付け替えていただいたのですが、それを見ながら「実はこの古い方は、私が若いときに作ったものです。平成になるかどうか、だと思います。」とのこと。約30年、殆ど毛羽立たず、もちろん丈夫で、時に雨に打たれ、沢山の子どもたちを空へ運んだ(比喩じゃありませんよ)板。お勤めを終えて、代替わり…というところでしょう。
 実はブランコ本体はもっと古い、ということですね。いったい何代目なのか、見当つきません。分かるのは「歴代の子ども達が漕いで漕いで、遊び続けてきた」ということ。お尻で乗っかられて役に立つのは辛いかも知れないけれど、沢山の子ども達の思い出に残るブランコです。何だか、有り難い事です。

考えさせる話

5月 29th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (考えさせる話 はコメントを受け付けていません。)

「イラストヤ」さんより

 今日は好天に恵まれ、スッキリ気分良く幼稚園が始まりました。お御堂参りでは、珍しい「猿の仲裁」というお話を。なかなか難しいですよ。

 2匹のキツネが、大小差のあるお握りをめぐって口論しています。そこへ猿がやって来て、「同じ大きさにすればいいんだよ。大きい方をちょびっと食べてあげる」と言って「あ、食べ過ぎちゃった。こんどはこっちを調節…あれれ、ごめんね」と言いながら、結局は全部食べてしまうお話です。
 教訓としては「大事なことを人に任せるな」ではあるのですが…。
 兄の言い分は「ボクは大きいから大きい方を食べる」。弟の言い分は「ボクは大きくならなきゃならないから、大きい方を食べる。沢山食べなきゃ大きくなれないでしょう」と。
 これ、どちらも正解はないのでしょうね。お話が終わってから、子ども達に訊ねてみました。「どっちが大きい方を食べたらいいんだろうね?」…「半分こ」という意見もありました。でもそれがいいのか?せめて「最善の策」と言えるのか?
 私としても、「これが正解」を示す事はできませんし、そもそも「しこりを残さないで終わる」方法はあるのか?そんな事まで考えていました。結局の所、その場…リアルタイムで考えるよりないか、と。「なるべく痼りをのこさない、双方痛み分けの策を。
 幼稚園では、なるべく「正解のあること」の正解は伝えようと思います。しかし同時に、「正解のない問いもあるよ」ということ自体は伝えておきたいのです。そして、「自分の意見を自由に表明できる」ことも。

体操周りの風景

5月 18th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (体操周りの風景 はコメントを受け付けていません。)
 体育指導は明日なのですが、今日は年少さん・年中さんで体操をしていました…イマドキは、マンション住まいの方も多い(住所録を作ると分かります。8割以上がマンションではないかしら)ので、帰ってからはあまりドタバタと運動は出来ないのだろうなと想像することもあり、繰り返して量を稼いでいるのでした。
 先日、年少組さんを魅了した年中さん、今日も鉄棒やマット、でんぐり返りなどをしていました。後転が始まった所なのですが、「後ろに向かって倒れる」というのは相当な恐怖心で、「大事なところ(頭)を守り、下り坂を作って、ボールになったつもりで転がっていく」のですが、少し背中を触れてあげないと、体がこわばってしまう子もいました。ただ、回った後は「楽しかった」という感覚があるようで、自然と笑顔になる子が多かったです。
 走り前転も、かなりの勢い。年少さんの頃の「でんぐり返し」とは違うレベルにいます。その先には、台上前転があります。
 さて体操を終えた年少さん、保育室に戻って身支度です。「エプロンを自分で着る」のはまだ難しいものの、「お友達のを手伝ってあげたい!」という気持ち、あるいは「先生と同じようにしてあげる」姿が見られました。実際、「先生が好き→先生と同じようにする」という傾向は、とても顕著です。「先生がお手本に描いた絵、そっくりに描く」…年中さんでは例年見られる姿です。
 これはもちろん、「お母さん大好き→同じように…」が基になっています。お料理だの大掃除だの、誰かを見つけたときの接し方、果ては口癖まで(笑)。「子どもが真似をする」のはお母さんが好きだから。それは我々、心のどこかに置いて身を修めなければなりませんね。

仕事と遊び

5月 17th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (仕事と遊び はコメントを受け付けていません。)
 新宿御苑での風車を見ながら、ぼんやりと考えました。「仕事は効率が大切だけれど、遊びはその辺り、度外視だなぁ」と。
 そうなのです。年少さん・年中さんは玩具を作って持って行ったのですが、どちらも「自分で走る・自分で投げる」ことを求める遊びです。子ども達は、一生懸命走り回り、投げ上げ、拾い、また投げて…存分に遊んでいました。そこには「効率よく」などという価値観は殆どありません。風向きに対してぴったり向けることができれば、風車が自然と廻りだして、それはそれで面白いのですが、子ども達にとっては「自分の働きかけで動く」というストーリーの方が好きらしく、大人が教えても暫く経つと、また走っている姿をよく見かけます。
 大人は普段「効率よく」をかなり重視していると思います。お料理や掃除などの家事にしても、もちろん仕事にしても。けれど、子ども達は(いずれ気付くのでしょうけれど)その辺りは度外視。自分がどれだけ疲れたか=どれだけ関わったか=どれだけ楽しかったか、という等式が成立しているような気がします。大人になっても、趣味の世界はそうですよね。「仕事を効率よくこなし、作った時間を好きに使う」という感じ。
 何だか、「ワークライフバランス」みたいな話しになってきました。「仕事を効率よくこなし、時間はできたけれど、却って暇でやることがない」のは淋しい人生かも知れません。効率度外視で夢中になって楽しめる時間を確保してあげることは、一生の大事かも知れませんよ。
 改めて、遠足へのお付き添い、ありがとうございました。暑すぎず寒すぎずの中ではありましたが、ご苦労様でございました。子ども達が親御さんから離れて走り回ってくる。迷子にならず戻ってくる。年少さんにとっては初めてのことだったかも知れません。「ただいま〜」「お帰り〜」の時の双方の笑顔、心から嬉しそうで、私まで嬉しくなりました。

旅立ちの時

5月 15th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (旅立ちの時 はコメントを受け付けていません。)
 まだ5月なのに…そう、池の蛙たちの話です。ここ何日かで、一斉に小さな蛙となって、池から外界へ出ていきました。このタイミング、非常に危険なのです。テレビでもやりますね、「ウミガメの卵から孵った子が、海に入るまでが一番危険なのです!」とか。
 大きな動物や鳥はもちろん、幼稚園の子ども達も、強烈に惹きつけられてやってきます。シャベルで根こそぎ…試みる子もいます。
 園長は「くーっ」と苦しみを感じつつ、「でも、こうして生き物に直接触れる機会を奪ってはいけないな」という葛藤を感じます。彼らは出ていったって誰も面倒を見てくれません(そもそも、オタマジャクシの時だって誰も面倒をみてくれません)。そして、えら呼吸が終わって肺呼吸となり…つまり池では生きていけなくなって、ある意味やむなく地上へ出て行くのです。祝福しろとは言いませんが、何とか静かに見守ってあげてほしい…とも思います。
 本当に難しいところです。離れなさいと言い、その子にスマホのゲームを与えれば、喜んでそっちへ行くかも知れません。蛙は生き延びる可能性が高まるかも知れません。けれどね…「スマホより蛙のほうが面白い」と感じている気持ちは、正しいと思うのです。将来「好きなこと?スマホかな」としか答えられないよりもよっぽど。  すでに石の上で干からびている子もいました。生き物の定めですから「そういうもの」ではあります。子ども達より遅く生まれ、先に命を終えていく。大人になってからでいいので、何か心に留めて欲しいところです。

満50年でお祝いを

3月 2nd, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (満50年でお祝いを はコメントを受け付けていません。)
 2日には、幼稚園で一日早い「ひなまつり」の集いを行いました。さてご挨拶…が済むと、理事長先生がマイクを握っています。そして、節句の祭りの由来などを話し始めました。
 実は、園長から「理事長先生や亜子先生は、子ども達の前にもっと姿を現すべきだ。幼稚園に来て下さいよ。そうだ、ちょうど雛祭りだし」と言われて「見に来た…はず」だったのですが、イザ子どもを前にすると、やっぱり嬉しいのですね。アドレナリン大放出(?)で調子に乗って「関西ではお雛様の男女が逆」とかの話になっています。
 そして…更に調子はあがり、「実は…理事長先生は明日の3月3日が結婚記念日なんです」と上機嫌。オヤこれはバレたか、と思いましたが、もう行くしかありません。司会の先生も予想外の展開ながら「実は理事長先生と亜子先生の金婚式を、一緒に行います」と発表。舞台には年長組が貼り絵をして作ってくれた似顔絵、そしてホールをぐるっと(菱餅色で)飾る輪飾りは、年少・年中組で作ってくれました。全部で50mを優に超える、素晴らしい作品です。
 先生方からの大きな花のアレンジメントをいただき、みんなで一緒に歌をうたい、子ども達からお祝い頂いた二人は、確かにとても嬉しそうでした。なかなか見ることができないほどの笑顔。子ども達から見れば、雛祭りはともかく、金婚式というのは耳馴染みがなかった事であろうと思いますが、「何か特別なことをした」のは覚えていてくれるかな…と期待しています。
 「園だより」にも書きましたが、いまどきは「夢」が「見るもの」から「叶えるもの」(叶えなければ意味がない)に変わってしまっていますが、再び「いいんじゃない、見るもので」と捉え戻したいと思います。「結婚して50年」なんて、まさに夢の夢ですが、ふと「ああ、ここまで歩んできたんだな」と振り返って見るべき事柄であるように思います。いま在園している子だけが味わえる式。やや公私混同かな…とも思うのですが、「お父さん・お母さん」という「自分からの視点」を少し離れるきっかけにもなるかも知れない、そんな風に思いました。

見て考える

2月 20th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (見て考える はコメントを受け付けていません。)
 今日は久しぶりのお御堂参り。本年度も残すところ、あと2回となりました。ちょうど池に蛙が集まってきたので、早速それに因んだ話をセレクトしました。「蛙の子は蛙」、もう日本中の人が知っている話ですね。
 私達は日々、人工物に囲まれて生活していますけれど、幼い頃は特に、自然に親しみながら生活して欲しいと願っています。自然に親しむとはつまり、ものごとの「ありのままの姿」に触れるということ。お日様の運行を見たり風に吹かれたり、梅の香りに気付いたり…恣意なく変わりゆく自然に囲まれている(という実感を持って)生活をしてほしいのです。
 人工物って、基本的に「ありのまま」ではないんですよね。夜でも電灯で明るく。冬も暖房で暖かく。花のない時期でも香水で…。願いとか利便性とか、理解はできることなのですが「ありのまま」ではなくする。人工って、そういうものです。大人になるにつれ、そういった割合は増えていくものですから致し方ないとしても、今のうちはせめて、「ありのままの自然」に目を向けられる子達に…。
 ということで、「蛙の子は蛙」を改めて考えると、この両親は「自分の目で見た物」をベースにしっかり考えているのです。「この見た目…どうにも我々には似ていない。ヒゲが付けば、むしろナマズではないか。」「あっ!足が生えてきた。ということは…大きくなったら龍になるのかな?」現実をしっかり観察し、自分達の知識を動員して、「何が起きているのか」を考える。

これ、実は4〜5歳児の発達課題では!!??

 「私に似ていない!そんな馬鹿な!」という「あるべき論」を否定する現実主義、そして「足が生えてきた!だったら…」と自らの考えを改める柔軟性。この両親、健気で可愛らしく見えてきませんか?
 …そして、最後は「元気でかわいい蛙になりました」で一安心。「ナマズだったら陸地に上がれないし、龍だったらこの池では住めない。一緒に住めてよかったね」というオチは、かなり見事なものだと思うのです。
 先生方の日誌を読んでいたら、「あれは、鬼ごっこの鬼決めを相談しているんだよ(実際は交尾ですね…)」という子のツブヤキを拾っていました。「自分で見る。自分なりに考える。表現する。受け取ってもらうという、よい循環がおきていますね。