明照幼稚園

新幹線で、山形へ

8月 7th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 - (新幹線で、山形へ はコメントを受け付けていません。)
 みなさま、夏休みいかがお過ごしでしょうか。幼稚園の畑では、新しくメロンの実がひとつなっています(まだ未熟ですので今は食べられません)。オクラもだいたい「いい大きさになったな」と思うと誰かが収穫するという塩梅。「今日とるんだ」ではなく「(野菜の)今日とって、の声に対応してとる」という感じです。何年か前の大葉もまた出ていますので、少量お使いの時はどうぞお寄り下さい。
 さて、昨年度に引き続き、山形県の認定子ども園へ行って参りました。去年と同じ所です。前回の話が中途半端だったのか、「二年連続して同じ人の話」というのは、色んな意味で難しい所があるのですが、ご縁もあり、お伺いしました。
 今回は「学習」というプロセスと、その際に引っかかりやすい事として、「練習・失敗」について触れました。参考にしたのは『GRIT』と『レジリエンスの鍛え方』の二冊が中心。その中に、自分の体験談を大きく盛り込むことにしました。
 自分の幼児期の記憶って、そんなに沢山のエピソードはないのですが、今になって思い出すと、なかなか味わい深いものです。よく「満足した記憶は忘れる。未達成の記憶(恐れ・悔しさなど含む)は忘れない。課題として残っているから」と言われるのですが、今回のエピソードは2つとも「良かったね」という話。ということは、よっぽど自分の心に深く刻まれていたのだろうな…と、改めて思います。
 それらについては、改めて「第2回入園説明会」の「ミニ講演会」でお話しようと思います。全く一般的なエピソードではない(どの家庭でも再現できるものではない)ですが、普遍性はあると思っています。
 にしても。
 認定子ども園ができた時には、「預ける施設なんでしょ・子どもの育ち云々よりも、親のための施設なんでしょ」と見ていたのですが、10年を越えて、「しっかり子どもの育ちを先生方が考えているなぁ」という印象に変わりました。教育面については幼稚園に一日の長があるとは感じますが、勢いがある。研修のための時間と予算も、自治体が確保してくれているようです。実際、町立で幼稚園・保育園・認定子ども園と3種類あるのですが、足並みをそろえて研究をしたり、人事異動で自然な交流もあるとのこと。うらやましい。
 けれど…出生者が年間50人程度、というのはまだ底を打っていないそうです。定住・移住計画も思うように進んでいないとのこと。
 備忘録的に、そのときの資料PDFのリンクを張っておきます。普通は(面倒になるので)あまり公開しないものですが、自分のためにも。

野菜盛りと言えば

7月 10th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (野菜盛りと言えば はコメントを受け付けていません。)
 今日は幼稚園で「みたたまつり」の集いです。私が園長になった10年前と比べてさえ、お盆について「お仏壇がある」「家でやったことがある」という子が減ってきているのを感じます。
 コンセプトは子ども達にも話したのですが、「皆が元気に幼稚園に来られる←ご両親が育ててくれているから←昔は子どもだった=お爺さん・お祖母さんが育ててくれたから←昔はこどもだった=曾祖父母が育ててくれたから…ご先祖様と呼びます」という話をしました。
 子どもが育つ環境として、「より多くの繋がりを持っている」ことはとても大切だと思うのです。世の中の柔軟性(不確実性・理不尽さ含む)に打ちのめされないためにも。「沢山の人の想いが重なって、いまあなた達は育っている」という実感は持たせてやりたいと思います。
 さて、「キュウリの馬、ナスの牛」は定番なのですが、今日は先生が野菜盛りを説明していました。と言っても「これはトウモロコシ、これはインゲン…みんな、夏の野菜なんだよね」と。あのような盛り合わせは、なかなか見る機会もないだろうと思います。
 そんな中、「アルチンボルト」の絵を下駄箱に架けておきました。早速「駅にポスターがあった!」と気付いた子もいました。観察眼が優れている子は、きっと好奇心も強く、その分「楽しいことがたくさんある」ような気がします。アルチンボルトの絵も、「ちょっと見てびっくり、じっくり見てニヤリ」な要素がたくさん隠れています。実物はかなり大きいので、機会がありましたら上野でご覧になるのをお勧めします。

言葉で意識

6月 30th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (言葉で意識 はコメントを受け付けていません。)
 今日は各学年の体操参観で、多くの方にお越しいただきました。ありがとうございます。
 もちろん「子ども達の様子を見る」ことで、「子ども達の育ちの価値観を共有」「成功体験と嬉しさの共有=応援」をはかり、子ども達のより力強い成長につなげていこう…というのが趣旨です(選挙っぽい口調になってる?)。
 私も、もう何年も見ているのですが、今日は「指導の先生から、親御さんへのメッセージ」だな…と思うような台詞がありました。
 この体操の成り立ち。目指していること。子ども達の気持ちを常に見ながら行っていること。運動のねらいと共に、その背景にあるストーリーを、たくさん話していらっしゃいました。
 ということは、特に年長さんにとっては「今後の子育て、体育で迷うことがあったら、この”原点”に立ち返って下さいね…」という意味なのかな、と感じたのです。
 もちろん、今後も引き続きご指導いただきたいと思っています(もしかしたら、毎年同じメッセージは発しておられた?)。けれども、「子どもの様子や願い」を言葉にして渡すことで、受け取った側も「同じ様子理解や願いを持つ」ことはできると思います。それはまるで…

 「信じられる嘘を共有したのが、サピエンスの強みである」(『サピエンス全史』園長のうろ覚え部分)のようです。

 ア…「嘘」というのは「仮説」程度に受け止めています。

本質的に褒める

6月 22nd, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (本質的に褒める はコメントを受け付けていません。)
 何やら難しい感じのタイトルなのですが…話は約2年前から続いているのです。
 時計台のところにある、「アカパンサス」という花。じつはこれ、葉っぱをパキッと折ると汁が出てきて面白いのですが…面白がって葉や茎が沢山折られてしまったことがあったのです。平成27年9月。
 その時は、悲しみと怒りの看板が出ていました。
 そして今年。その時の看板の効果が今でもあるのか、その時のことを覚えてくれている人が多いからなのか、はたまた今年の子達が気付いていないのか、どんな訳かは分かりませんが、折られることなくたくさんの花が咲きました。
 ですから、目に見えることとしては「アカパンサスの花が咲いた」だけなのですが、「葉や茎を折らないでくれてありがとう。元気に伸びて綺麗な花を咲かせられたよ」というメッセージなのです。
 私が「本質的に褒めている」と感じるのはここです。「言われたことを守った」故に褒めたのではなく、「言われていないけれど、するべくようにした」ことを褒めた、ということです。
 くどいですが、「大人に言われたから」ではなく、結果として良いことがおきた。そこを改めて言葉にして子ども達に返していく。なかなかできることでは有りませんね。
 有り難い事に、年少組の子どもが看板に気付いて、「お花からお手紙が来たんだね」と話していたそうです。物言わぬ花たちですけれど、その言葉を聞くことができる。まさしく「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける(古今和歌集仮名序)」です。
 ああ、私は本当にこの仮名序が好きなんです。いま読んでも涙が出る位に。

塗り尽くす!

6月 20th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (塗り尽くす! はコメントを受け付けていません。)

写真の子と話の子はことなります。

 今日は年中さんの活動を近くで見ていました。「すいかのはじき絵」ということで、ある意味「昔ながらの活動」ではあります。先に描くクレヨンは、しっかり濃く色がでており、バッチリ弾いてくれそうな感じです。
 いよいよ絵の具の出番です。こちらは全員が一式持っている訳ではないので、机2台で8人ずつ行っていきます。クレヨンに比べて、絵の具(筆)は軽い力でスーッと塗っていけるのが特徴ですね。色も少し淡くて、確かに対照的です。
 ということで、サッサッと塗りおえていく子がいる一方で、「園長先生、もっと濃く塗りたい」というリクエストがありました。「ん?」と思いつつ、筆に絵の具を直づけ。「これでやってごらん」と渡しました。
 そう。「クレヨンに弾かれないよう、懸命に絵の具を(濃く)塗り重ねていた」のです。「悔しいなぁ、何とかこの色で塗りつぶしたいのに、このこの!」という感じ。くっきり描かれたクレヨンの線は、絵の具を水玉のように弾くばかり。そのうち「紙が危ないな…」を心配するほどになりました。
 暫くは力ずくで「何とか色をのせる!」という感じだったのですが、最後は何だか「やり遂げた…」という感じで、「もういい」と終了宣言。良かったじゃないか。サッと描いてパッと終わるより。これも一つの試行錯誤。よい学びです。

籤という公平性

6月 7th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (籤という公平性 はコメントを受け付けていません。)
 先週末から、年少さんの「机分け」にクジ引きが始まったようです。これもチャレンジングなところがあって、「クジという物を理解できるのか?」を見極めないとできません。そして、「クジ引きでお隣さんが決まっても大丈夫」という判断も。
 今までは、先生がいろいろと子どもの状況を勘案して指定席にしていました。「自分のお印はこれ!」というのは比較的早く理解してくれることもあり、それぞれの距離感も考えて。
 「そうでなくともよい」というのは(多分)、子ども同士のコミュニケーションが洗練されて来たという事なのだろうと思います。「ある程度、どの組み合わせでも大丈夫」という…。
 しかしもう一方で「クジの結果を受け入れる(だけの成長がある)」というのも見極めポイントです。特にいまどき、「自分の意見を言わない」状況は理不尽でもあり、苦痛になりがち。なにせ「生きる力とは、自分の意見を述べることを含む」のですから。
 そこに来て「自分の席は運任せ。どこになるか意見は言えません」ですから。

 けれど思うのです、「これも一種の公平さだな」と。
 もちろん全員の席はあるのです。「外れたら廊下」でもない。全員が同じ「ひとり一座席」なのです。
「先生の近くがいい」「○○ちゃんの隣がいい」…いろんな思いはあるでしょうけれど、ひとまず全員表明せずに、自分で引いた色の机に行く。「行った場所で楽しみましょう」という、ある種余裕のある状態…つまり「大丈夫」…になった、という成長の姿でもあるのです。
 自分の意見を言えないという理不尽はありますが、それ=「机を決めること」にまで拘らなくてもいいのではないかと思います。そういう「時期」があってもいい。けれどそれは一過性のもの。「いつまでも拘らない」は「いつまでも引きずらない」に通じているような気もします。
 「拘りを持つ」こと自体は否定しませんし大切だと思います。しかし、「拘るだけの価値」をどこに見いだしているのか、「拘るだけの価値があるか否か」をどう判断するか?「拘るべきものに拘れているか?」
 私が心の隅に置いている「生きる力」の一つです。

物語と現実と

6月 5th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (物語と現実と はコメントを受け付けていません。)
 今日もお御堂参り。楽しい話、短い話と進めてきて、そろそろ「メリハリをつける」をねらいたい時期です。ま、それでほぼ最終段階なのですけれど。
 そこで選んだ話は「おろかな蛙」身も蓋もないタイトルですが。イソップ童話ですから、もう2500年も前の作品。仏教とほぼ一緒ですか…。
 ストーリーは皆様ご存じの通り、最後に破裂してしまったお腹に絆創膏を貼って、「無理な背伸びはするもんじゃない」と終わる訳ですが、子どもたちはそんな教訓よりも「そこで、お母さん(お父さんというバージョンもあります、念のため)蛙は思いっきり息を吸い込みました。スーハースーハー、そして、ボヨーン」その描写に大喜びです。
 やる度に「スーハー」が増えていくこと、「ボヨーン」の音のおもしろさ、話者の表情など相まって、面白いのでしょうね。こちらも分かっていつつも真剣に、「どう?この位の大きさ?」と、ちょっと苦しそうな声で聞いたりします。
 教訓はともかくとして、印象的だったのは「パチーンと、破れてしまいました」のところ。水を打ったようにシーンとして、「どうなるんだろう?」と…まさに固唾をのんで見守ってくれました。子どもの蛙が治療してくれて一安心。最後に親子で見に行ってエンドのような気もしましたが、「治療しました」で子どもたちも安心したようです。
 さて、この物語。実際に蛙がそんな自殺行為をする訳はないのですが、子どもたちはきっと肌身に感じて心配していたのでしょうね。つまり本気だったのではないかしら。「蛙がそんな事する分けないじゃないか。第一日本語を話すわけないだろう」というのは小学生以降の感性。そのツッコミは成長の証でもあるのですが、幼児にとっては「気持ちを寄せる体験」をした事として大切なのだろうと思います。自分たちが実際に無謀なことをする…というのは(たまに見かけますが)危険も伴います。なのでこうした「物語」を通じて共感し、心情を育てているのではないかと思います。
 現実には、けがをした友達を心配する姿がよく見られます。「自分も痛いときに心配してもらった」というのが一番強い要因であろうとは思いますが、物語を通じて学んだ価値観を現実で復習している、そんな姿にも見えるのです。

何代目?

6月 2nd, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (何代目? はコメントを受け付けていません。)
 幼稚園のブランコ…「金具を留めている穴が、少し大きくなったようです。そろそろ交換では?」と先生から話がありました。見ると確かにグラつきがでていました。早速大工さんに相談です。
 見るとすぐに材質も分かってくれました。「同じ大きさ・同じ穴でいいですね?」「ハイ、お願いします」ということで加工にかかっていただきました。
 暫くして「出来ました」、持参して金具を付け替えていただいたのですが、それを見ながら「実はこの古い方は、私が若いときに作ったものです。平成になるかどうか、だと思います。」とのこと。約30年、殆ど毛羽立たず、もちろん丈夫で、時に雨に打たれ、沢山の子どもたちを空へ運んだ(比喩じゃありませんよ)板。お勤めを終えて、代替わり…というところでしょう。
 実はブランコ本体はもっと古い、ということですね。いったい何代目なのか、見当つきません。分かるのは「歴代の子ども達が漕いで漕いで、遊び続けてきた」ということ。お尻で乗っかられて役に立つのは辛いかも知れないけれど、沢山の子ども達の思い出に残るブランコです。何だか、有り難い事です。

考えさせる話

5月 29th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (考えさせる話 はコメントを受け付けていません。)

「イラストヤ」さんより

 今日は好天に恵まれ、スッキリ気分良く幼稚園が始まりました。お御堂参りでは、珍しい「猿の仲裁」というお話を。なかなか難しいですよ。

 2匹のキツネが、大小差のあるお握りをめぐって口論しています。そこへ猿がやって来て、「同じ大きさにすればいいんだよ。大きい方をちょびっと食べてあげる」と言って「あ、食べ過ぎちゃった。こんどはこっちを調節…あれれ、ごめんね」と言いながら、結局は全部食べてしまうお話です。
 教訓としては「大事なことを人に任せるな」ではあるのですが…。
 兄の言い分は「ボクは大きいから大きい方を食べる」。弟の言い分は「ボクは大きくならなきゃならないから、大きい方を食べる。沢山食べなきゃ大きくなれないでしょう」と。
 これ、どちらも正解はないのでしょうね。お話が終わってから、子ども達に訊ねてみました。「どっちが大きい方を食べたらいいんだろうね?」…「半分こ」という意見もありました。でもそれがいいのか?せめて「最善の策」と言えるのか?
 私としても、「これが正解」を示す事はできませんし、そもそも「しこりを残さないで終わる」方法はあるのか?そんな事まで考えていました。結局の所、その場…リアルタイムで考えるよりないか、と。「なるべく痼りをのこさない、双方痛み分けの策を。
 幼稚園では、なるべく「正解のあること」の正解は伝えようと思います。しかし同時に、「正解のない問いもあるよ」ということ自体は伝えておきたいのです。そして、「自分の意見を自由に表明できる」ことも。

体操周りの風景

5月 18th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (体操周りの風景 はコメントを受け付けていません。)
 体育指導は明日なのですが、今日は年少さん・年中さんで体操をしていました…イマドキは、マンション住まいの方も多い(住所録を作ると分かります。8割以上がマンションではないかしら)ので、帰ってからはあまりドタバタと運動は出来ないのだろうなと想像することもあり、繰り返して量を稼いでいるのでした。
 先日、年少組さんを魅了した年中さん、今日も鉄棒やマット、でんぐり返りなどをしていました。後転が始まった所なのですが、「後ろに向かって倒れる」というのは相当な恐怖心で、「大事なところ(頭)を守り、下り坂を作って、ボールになったつもりで転がっていく」のですが、少し背中を触れてあげないと、体がこわばってしまう子もいました。ただ、回った後は「楽しかった」という感覚があるようで、自然と笑顔になる子が多かったです。
 走り前転も、かなりの勢い。年少さんの頃の「でんぐり返し」とは違うレベルにいます。その先には、台上前転があります。
 さて体操を終えた年少さん、保育室に戻って身支度です。「エプロンを自分で着る」のはまだ難しいものの、「お友達のを手伝ってあげたい!」という気持ち、あるいは「先生と同じようにしてあげる」姿が見られました。実際、「先生が好き→先生と同じようにする」という傾向は、とても顕著です。「先生がお手本に描いた絵、そっくりに描く」…年中さんでは例年見られる姿です。
 これはもちろん、「お母さん大好き→同じように…」が基になっています。お料理だの大掃除だの、誰かを見つけたときの接し方、果ては口癖まで(笑)。「子どもが真似をする」のはお母さんが好きだから。それは我々、心のどこかに置いて身を修めなければなりませんね。