明照幼稚園

考える姿

6月 4th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (考える姿 はコメントを受け付けていません。)
 今日は「時の記念日の集い」。実際には10日なのでかなり前倒しなのですけれども、諸般の事情で…行いました。
 昨年度の「ねはん会」で好評だったこともあり、「幼稚園内にある、大きな時計を集めてスライドを作ろう」と考え、あちこち見て廻りました。今日はお御堂参りもあり、結構バタバタとした製作だったのですけれど、何とか間に合わせることができました。
 原理は「お花探し」と同じで「この時計、どこにあるかな?」というものなのですが、子ども達には「指先ビーム」で「あっちにあるよ!」を示してもらいました。
 その中でも一番難しかったのが「旧園舎の柱時計」です。たんぽぽぐみに通っていた子であれば目にしていたであろう、とは(うっすらと)思うのですが、年長さんは多くが知っていたものの、年少さんで知っている子は少数派でした。
 そこでは「柱時計」という名前で教えたのですが、これがのちのち「考える」きっかけになりました。
 司会の先生が「日本で初めての時計(漏刻)は、こんなに大きかったのです」とか紹介してくれて、全体の振り返りをしていった時のことです。
 例の「柱時計」…を言おうとしたら、子ども達から「ふるどけい!」という声があがりました。先生「うーん、もうちょっと…」 C「大きなふるどけい!」 T「あー…(柱時計なんだけど…)」 C「大きなノッポのふるどけい!」とまで行ったかは定かに覚えていないのですが、子ども達にとって「アレ」は「大きなノッポの古時計」なのですね。
 思えば、時計の分類はかなり実利的というか機能的というか、素っ気ないですね。「腕」「柱」「壁かけ」「目覚まし」「懐中」など。物語がないので、子ども達にはつまらないのかも知れません。
 しかし、子ども達の考えは面白いですね。知っている「大きなノッポのふるどけい」という言葉から、名前を想像していったのですから。「持っている材料から考える」。当たり前のことですが、「材料を与えないで考えよと言っても仕方ない」ものです。私も時々やってしまいます…「自分で考えなさい!」と言いつつ「反省しろ!しおらしくしておれ!」としか意味のない発言を…。
 「考えるためには、材料を集めてから」。両方を合わせて「考える」と呼ぶのかも知れませんが、持っている材料の差が大きい時には、特に気をつけねばなりませんね。

好きが高じて

5月 28th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (好きが高じて はコメントを受け付けていません。)

freedesignfile.com

 今日は曇天でしたが、無事にお御堂参りをすることができました。お話は「絵から抜け出た馬」。これも中々示唆に富んでいると感じました。
 焦点は小僧さんなのですが、「お経の勉強はやらないで、暇さえあれば好きな絵を描いていました」というのですから、現代も同じ…ような光景は見られますね。和尚さんに見つかっても、やめない。するとそのうち上手になるわけです。
 馬の足跡は、小僧さんの部屋まで続いていました。不審に思った村人や和尚さんに問い詰められて、ついに「絵を描いていた」ことを明かします。
 その後の展開が、救われます。「そんなに好きで上手ならば、絵を描いて周りの人に差し上げなさい。いいものなら、みんな喜んでくれますよ」と終わるのです。麦のことは、取りあえず不問。お経の練習をしなかったことも、取りあえず不問。自分の才能を活かしたことをやり、周りに喜んでもらう。ああ、いい展開です。
 私の知人の中でも、「この子は芸術関係が好き・得意」ということで、いろんな稽古もして、コンクールに出たりして…。でも「やっぱり勉強(も)させます」と、どこかで「勉強できます!」コースにシフトしていく子は多いようです。まぁ、それが現代いちばん堅実なルートだとは思うのですがね。
 件の小僧さんが、その後どうなったのか…お経ができずに放り出されたか、お寺を捨てて絵の道に進んだのか、はたまた「絵を描く坊さん」として生きていったか、…分かりません。分かりませんけれど。
 私としては、「絵を描く坊さん」が一番いいな、と思います。坊さんというのは、実は幅広い活動ができるのですから。「お経を読んでいる」だけが坊主ではないのです。

一人でできるよ

5月 1st, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (一人でできるよ はコメントを受け付けていません。)
 今日から、年少組さんもお弁当が始まりました。つまり、短縮期間を終えて「通常保育」ということになります。たんぽぽぐみ時代に「お弁当持参」のことはありましたが、これからは「準備から片付けまで、自分でできることは自分で」という志向になります。
 全クラスの様子を見に行ったのですが、食べる事に関心のある子が多いようで、意欲的に食べている子が多かったです。…実際、「充分お腹が減っているか?」が、かなり大きな要素です。「お弁当は、なるべく食べきる」というのが方針ですが、それをどう実現していくか?は私達にとっても試行錯誤です。
「トイレでの成功」にも似て、「できたね!」という小さな成功体験から始めることが大切なのだろうと思います。だから、「ほんのチョット」でも「時間が掛かった」でも「お喋りしながら」でも「食べたよ〜」「はい、よかったね」というやり取りにもっていく…。この時期の先生方(そしてご家庭)の忍耐力は、そりゃ凄いものだと頭が下がります。もちろん長い時間をかけて食習慣ができていくのですが、「嫌いだから食べない」は、ちょっと寂しいな…と思うのです。それが本当に嫌いであっても。食に対する態度は、自分の身体をどう労るか、にも関わります。自分の身体を大切にする一つの側面として、食育は取り組んで欲しいと思います。

僕がやったんだ

4月 27th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 - (僕がやったんだ はコメントを受け付けていません。)
 年長組さんの展望室(第2図書室・空の部屋…いろんな呼び方があります)に、新しく机と椅子が入り…入ろうとしています。
 というのは、子ども達が現在進行形で椅子を組み立てているのです。流石にイチからという訳ではなく、ほぼ「最終組み立て」ではあるのですが。
 ドライバー1、ねじ1本でも、「僕がやったんだ!」という気持ちになるものです(園長体験済み)。お料理で言うならば、「あのジャガイモは、私が洗ったのよ!この牛乳パックは、僕が開けたんだ!」ぐらいの誇らしさがあります。
 私が子どもの頃は、「超合金」というロボットの玩具がありまして、それを全部分解して悦に入っておりました…プラモデルもだいぶ作りまして、「バリは取らなければならない」「物事には順番がある」「パーツを無くさない工夫が必要」「蓋はしっかり閉めないと面倒になる」「道具は元の場所に戻す」…等々、生活に必要な学びが随分ありました(今から振り返れば気づく事、なのですが)。
 ドライバーを使う上で大切なのは「ネジに合ったサイズを使うこと」「押しつけながら回すこと」だと思います。子ども達、今の時点ではどちらも及第点とは言えないでしょうけれど、

「僕がやったんだ!できるんだ!」という、自己肯定感(の半面)に繋がること、と思います。

 お父さんが電球を替えていたり、本棚を作っていたり、DIYをする機会があったら、ぜひ子ども達の見える所でやってみて下さい。特に男子は目を輝かせて見ることでしょう。それは、「お父さん、すごい!」という尊敬の眼差しでもあるはずです。

池でいろいろ考えた

4月 21st, 2018 | Posted by Sato in 保育論 - (池でいろいろ考えた はコメントを受け付けていません。)
 今日、幼稚園はおやすみですけれど、園長は朝から働きましたよ。
 イヤイヤ大したことではないのですが、オタマジャクシ第二団を放流しました。前回は浅草のお寺さんから、今回は上野のお寺さんから。やはり緑と土のある所には、蛙が住んでいるのですね。
 さて、魚を飼ったことのある方はご存じと思いますが、その導入手順は結構大変です。お店から買ってくる場合は余り神経質にならなくて良いのですが、「余所の池=よその環境」から来る場合は、手間がかかるのです。

1)温度合わせ。輸送によって必ず水温は変わっていますから。
2)水合わせ。 徐々に新しい環境の水を足していきます。時間をかけて。
3)さらに水を入れ、古い水をどんどん捨てていきます。
4)先方から来たであろう植物などを除去。
5)生き物だけをすくって、新しい環境へ投入。

つまり、「異なる生態系から移動してくる」、その無理を何とか軟着陸させようという段取りなのです。
 幼稚園の池の水を飼育水として家に持って帰ると、恐らく藻が繁殖すると思います。凄い生命力ですから。それと同じように、「先方の環境にいた植物」はできる限り入れないのが原則。こちらにとっては外来植物な訳で、池の勢力図が変わってしまう可能性があるのです(するとリセットが大変…)。本当は「一度、新しい環境の水で生体を洗う」ぐらいやっても良いのかも知れません。  それでも、生き物の状態と環境変化の度合いによっては、「全滅です」という可能性もあります。まぁ今回は若い子たちなので、何とか順応してくれることを期待していますが…まだ分かりません。

 おっと、随分書き進んでしまいました。ぼんやり考えたことは後回しにします。
 「子どもをとりまく道具として、自然の物と人工の物、今は圧倒的に人工物が多いんだろうな」と思いました。合理的で刺激的で楽しいけれど、人によってデザインされた物。目的を持って(買ってもらう)生まれたもの。それと、自然の物には何か質の違いがあるように思えてなりません。
 「自然のものに触れることが、なぜ大切なの?(どんな意味があるの?)という問い」になるとは思いますが、ワタクシ今の所、それを簡潔に表現できておりません。けれどこれ、たぶん人類史上珍しいことなんだろうと思います。
いや−、「池は人を哲学者にする」といったところでしょうか。
                                         

デザイン考

4月 19th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | - (デザイン考 はコメントを受け付けていません。)

年長さん「打ち合わせ」風景

 園長、にわかにデザインというものについて考えております。つまり、「デザインとは何か?デザインするとはどういう行為なのか?」ということです。
 パッと思いつくのは図画とか美術の授業なのですが、「デザインする」というのはもっと多彩なことがらを対象にできると思います。そんなことを考える入口として、『大量生産品のデザイン論』という本を手に取りました。
 読み始め、すぐに得心したのは、「デザイナーズマンションとか言って、さも"デザインしていること”を付加価値のように謳うのはいかがなものか。どんなプロダクトでも、デザインはされている」というくだりです。久しぶりの「ニヤリ」な感じでした。
 著者の佐藤さんは、「おいしい牛乳」のパッケージなどを手がけた方で、NHKの「日本語であそぼ」のビジュアルや「デザインあ」を仕掛けた方でもあります。(私の車にも「あ」のシールが貼ってありますが、少し歪な形です)。
 本ではデザインが決まって製品が消費者に渡っていくプロセスが描かれているのですが、面白いのは

価値は既に製品が持っている。それを可視化していくのがデザインすることである

 といった趣旨で「デザインすること」を定義していることです。つまり、

何が表現したいのか、という内容よりも、どう表現するかという方法の問題

のようです。大雑把にやり方、と呼んでいいのかも知れません。
 保育をデザインする。幼稚園の活動というのは、園の理念や園長の思い、先生達の考えや気持ちを「どのように形として表現するか」でもあるわけです。先程の言葉にのれば、「園や教育活動の持っている価値を、どう可視化していくか」が保育のデザインという訳です。先般から取り組んでいる「文科省の教育指導要領に沿った保育云々」も、理念の可視化・具体化ということではデザインと呼べるのではないでしょうか。また、子どもの現実の姿から「こんな人間に育てたいのだな、育って欲しいのだな」を読み取るのは、逆ルートというか「デザインを読み解く」と言ってもよいのかと思います。
 デザイン、つまり「どうやって伝えるか」は、これからもっと光を当てて考えていいのではないか、そう思います。現代なにかと内容…「何を?」を追究しがちですが、実は、「言い方」を初めとする表現方法の方が、コミュニケーションにおいては大事なのではないかと考えています(明るく仲良く・言い方によるトラブル・ツールの多様化高機能化・バカの壁・誰に言われたか…)。第一歩は、「内容とデザインは、不可分ではあるけれど別物」ということです。「内容もいいしデザインもいい」も「内容はいいがデザイン(伝え方)はだめ」もあり得る。そして実はデザインというか「伝え方」を学ぶ機会が乏しくなっているのではないか…?
 今度、「りねあ」の先生とお話してみようと思います。

転がり続ける

4月 13th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 - (転がり続ける はコメントを受け付けていません。)
 金曜日から、年中さんの体操が始まりました。
 通常の自由遊びとは事なり、体操の時間は「ココの筋肉をこう使って、こんな能力を伸ばしたい」という目的が結構細分化され…というか明確です。それゆえ系統だった指導を行うことができます。
 年少さんの最初、マットでは「でんぐりがえし」をすることから始めます。私が子どもの頃は普通にやっていましたが、今はどうなのでしょう。パンダのシャンシャンもするのかしら…。
 でんぐり返しは、両腕で体重のかなりを支え、下半身が上がることで崩れるバランスを、腕の器用さなどで修正しながら行うものです。「力がある」だけでなく、「器用なコントロール」が必要です。
 なので、慣れていない子は横に転がったりします。「腕をつく」ことが意識敵にできれば、繰り返す中でまっすぐに転がれるようになります。もちろん、試行錯誤&回数が必要ですが…。腕で支えられるようになると、頭や首への負担が減っていくことも期待できますね。
 そうして、徐々に「でんぐり返しのバリエーション」が増えていきます。
 写真のような「おすわりでんぐり返し」、そして「走り前転」「台上前転」と…。いずれも「腕の力でなるべく頭を支える。左右に倒れないよう、腕の力でバランスを取る」という基本は同じです。
 年長組の体操参観で、あるいは小学校入学後のラックスポーツクラブで、凄い勢いで台上前転をしている子どもをご覧になることもあるかも知れません。けれど、出発点は「布団の上でのでんぐり返し」、写真の年中さんで「走り前転(マットを折った上で)」なのですがら、長い道のりといえばそうです。何年も、何回も何回も転がって、「いろんな運動をして、かつケガをしない」子に育っていくのだろうと思います。

どう育つのかな?

4月 12th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (どう育つのかな? はコメントを受け付けていません。)
 今日は年長さんが、ジャガイモを植えました。今の時期だと「もう終わりの方」ではあるのですが、お手伝いいただいた植木屋さんによると、「まぁ、7月には収穫できるんじゃないでしょうか」という事でした。
 他の作物と事なり、イモというのは地中にできますから、「都度々々、変化を見ていく」ことは難しそうです。もちろん上に茎が出て、葉も花もつくのですが、「水をやっていればよい」だけではないので、年長ならではの注意点があるようです。
 むしろ、「お水はどの程度やればいいでしょうか?」と(敢えて?)聞いてみたところ、「いや、水はやらなくていいですよ。水が多いと腐ってしまうし」とのこと。「どんなお世話があるのか、そして子ども達ができるのか」は、先生方も試行錯誤しながらの栽培となりそうです。
 畑は「自然に触れ、親しむ」という大きなテーマの活動なのですが、年齢なりに関わり方は変化していきます。年少さんであれば「観察し・触れる」程度ですけれど、年長さんになっていくに連れ、「どうしたらいいのだろう?」と目的意識を持って育てていくことになります。図鑑などで調べることもあるかも知れませんし、周りの大人に質問するかも知れません。
 「食べ物を得る」だけではない活動として食育があるわけですが、様々な「学びへのつながり」になってくれることを期待しています。  

一緒に泥まみれ

3月 15th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (一緒に泥まみれ はコメントを受け付けていません。)
 日射しが春めいてきたことに合わせて、子ども達の遊びも少しずつ変化してきたようです。今日は、年長さんと年中さんが砂場で…裸足で遊んでいました。「足湯気持ちいい〜」と言っていたので、「足湯ごっこ」ということですね(文字通り)。
 まぁ、砂場ですので実際は「名のない遊び」で充分楽しいと思うのですが、名前が付くと伝播が早いですね。あっという間に子ども達が集まって来ました。早速靴と靴下を脱いで入湯?入泥?です。ウチらしいと思うのは、「脱いだ靴を並べている」ところですね。ワクワクして飛び込んだのでしょうけれど、靴の後始末はしっかりしているのでした。
 「足に傷のある子はいないかな」とか若干の心配はあったのですが、「これも子どもたちなりの、春の迎え方だな」と、微笑ましく見ておりました。
 そして、今日は卒園式の総練習を行ったのですが、そこに出てくるのですね、「みんなで一緒に、砂場で遊んだ」という歌が。「一緒」というのがどの程度なのか、どの季節なのか、何をしたのか。いずれも具体的に語られてはいませんが、ここ数日の様子は、まさに「歌詞に出てくるまま」だと思いました。年長さんは、卒業すると不思議なほどにパタッと動きが変わります。「今日のメンバーで今日の遊び」は本当に一期一会。「泥まみれ」が思い出の一コマになってくれたら、嬉しいです。

自分を語る

2月 20th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (自分を語る はコメントを受け付けていません。)
 今日は、お遊戯会明けですけれど、「当日には壇上に登れなかったけれど、今日は来られた」子もいて、「じゃ、もう一回だけミニお遊戯会をやろう」という話が出たようです。確かに年長組にとっては、最後の大行事。少し後悔は残るでしょうけれど、思いを遂げさせてあげたい。そう思って「分かりました、園長先生、見に行かせていただきます」となりました。
 実際のところ「本番を終えた」というのは、もう「ピークは越えた」ということです。最高の出来映え…にはなりません。しかし、「今日は来られた」子達の、その事情も知っておりますので「分かりました」と答えたのです。
 ちょうど卒園記念品に使う写真を撮りに来てくれたお兄さんと、二人だけの観客。そこに向かって、子どもたちは堂々と曲を演奏してくれました。本番の日というのは、カメラマンは勿論、私も照明係で結構ピリピリとしておりますので、一人ひとりの表情や仕草もゆっくり見ながら、聞かせてもらいました。
 そして自然と思ったのです。「この曲を選んだ先生の、その思いや願いを子どもに聞かせたい」と。もちろん下打ち合わせはなかったのですが、二人の担任それぞれの思いを語ってくれました。生の気持ちを言葉にしていますから、子どもたちがどれだけ「ピンときた」かは分かりません。けれど、彼女たちが人生かけて「私が今まで生きてきて、これが大事!」という事を伝えてくれました。保育者が参考にする本の「お便りの書き方」とかには、「アイメッセージを書きましょう。説明だけでなく、担任の気持ちや願いを書いてみましょう」とありますけれど、それの最たるものだったと思います。
 そう…今から思い返せば、子どもたちにやはり何某かは伝わっていたと思います。「うん、先生いつも言ってるもの」と、子どもが返していましたから。
 これだけしっかりした絆を持っている子どもたち、そして担任たち。解散していく日が近づいてきていますが、日々を楽しみ、人生を楽しんでほしいと思います。