明照幼稚園

デザイン考

4月 19th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | - (デザイン考 はコメントを受け付けていません。)

年長さん「打ち合わせ」風景

 園長、にわかにデザインというものについて考えております。つまり、「デザインとは何か?デザインするとはどういう行為なのか?」ということです。
 パッと思いつくのは図画とか美術の授業なのですが、「デザインする」というのはもっと多彩なことがらを対象にできると思います。そんなことを考える入口として、『大量生産品のデザイン論』という本を手に取りました。
 読み始め、すぐに得心したのは、「デザイナーズマンションとか言って、さも"デザインしていること”を付加価値のように謳うのはいかがなものか。どんなプロダクトでも、デザインはされている」というくだりです。久しぶりの「ニヤリ」な感じでした。
 著者の佐藤さんは、「おいしい牛乳」のパッケージなどを手がけた方で、NHKの「日本語であそぼ」のビジュアルや「デザインあ」を仕掛けた方でもあります。(私の車にも「あ」のシールが貼ってありますが、少し歪な形です)。
 本ではデザインが決まって製品が消費者に渡っていくプロセスが描かれているのですが、面白いのは

価値は既に製品が持っている。それを可視化していくのがデザインすることである

 といった趣旨で「デザインすること」を定義していることです。つまり、

何が表現したいのか、という内容よりも、どう表現するかという方法の問題

のようです。大雑把にやり方、と呼んでいいのかも知れません。
 保育をデザインする。幼稚園の活動というのは、園の理念や園長の思い、先生達の考えや気持ちを「どのように形として表現するか」でもあるわけです。先程の言葉にのれば、「園や教育活動の持っている価値を、どう可視化していくか」が保育のデザインという訳です。先般から取り組んでいる「文科省の教育指導要領に沿った保育云々」も、理念の可視化・具体化ということではデザインと呼べるのではないでしょうか。また、子どもの現実の姿から「こんな人間に育てたいのだな、育って欲しいのだな」を読み取るのは、逆ルートというか「デザインを読み解く」と言ってもよいのかと思います。
 デザイン、つまり「どうやって伝えるか」は、これからもっと光を当てて考えていいのではないか、そう思います。現代なにかと内容…「何を?」を追究しがちですが、実は、「言い方」を初めとする表現方法の方が、コミュニケーションにおいては大事なのではないかと考えています(明るく仲良く・言い方によるトラブル・ツールの多様化高機能化・バカの壁・誰に言われたか…)。第一歩は、「内容とデザインは、不可分ではあるけれど別物」ということです。「内容もいいしデザインもいい」も「内容はいいがデザイン(伝え方)はだめ」もあり得る。そして実はデザインというか「伝え方」を学ぶ機会が乏しくなっているのではないか…?
 今度、「りねあ」の先生とお話してみようと思います。

転がり続ける

4月 13th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 - (転がり続ける はコメントを受け付けていません。)
 金曜日から、年中さんの体操が始まりました。
 通常の自由遊びとは事なり、体操の時間は「ココの筋肉をこう使って、こんな能力を伸ばしたい」という目的が結構細分化され…というか明確です。それゆえ系統だった指導を行うことができます。
 年少さんの最初、マットでは「でんぐりがえし」をすることから始めます。私が子どもの頃は普通にやっていましたが、今はどうなのでしょう。パンダのシャンシャンもするのかしら…。
 でんぐり返しは、両腕で体重のかなりを支え、下半身が上がることで崩れるバランスを、腕の器用さなどで修正しながら行うものです。「力がある」だけでなく、「器用なコントロール」が必要です。
 なので、慣れていない子は横に転がったりします。「腕をつく」ことが意識敵にできれば、繰り返す中でまっすぐに転がれるようになります。もちろん、試行錯誤&回数が必要ですが…。腕で支えられるようになると、頭や首への負担が減っていくことも期待できますね。
 そうして、徐々に「でんぐり返しのバリエーション」が増えていきます。
 写真のような「おすわりでんぐり返し」、そして「走り前転」「台上前転」と…。いずれも「腕の力でなるべく頭を支える。左右に倒れないよう、腕の力でバランスを取る」という基本は同じです。
 年長組の体操参観で、あるいは小学校入学後のラックスポーツクラブで、凄い勢いで台上前転をしている子どもをご覧になることもあるかも知れません。けれど、出発点は「布団の上でのでんぐり返し」、写真の年中さんで「走り前転(マットを折った上で)」なのですがら、長い道のりといえばそうです。何年も、何回も何回も転がって、「いろんな運動をして、かつケガをしない」子に育っていくのだろうと思います。

どう育つのかな?

4月 12th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (どう育つのかな? はコメントを受け付けていません。)
 今日は年長さんが、ジャガイモを植えました。今の時期だと「もう終わりの方」ではあるのですが、お手伝いいただいた植木屋さんによると、「まぁ、7月には収穫できるんじゃないでしょうか」という事でした。
 他の作物と事なり、イモというのは地中にできますから、「都度々々、変化を見ていく」ことは難しそうです。もちろん上に茎が出て、葉も花もつくのですが、「水をやっていればよい」だけではないので、年長ならではの注意点があるようです。
 むしろ、「お水はどの程度やればいいでしょうか?」と(敢えて?)聞いてみたところ、「いや、水はやらなくていいですよ。水が多いと腐ってしまうし」とのこと。「どんなお世話があるのか、そして子ども達ができるのか」は、先生方も試行錯誤しながらの栽培となりそうです。
 畑は「自然に触れ、親しむ」という大きなテーマの活動なのですが、年齢なりに関わり方は変化していきます。年少さんであれば「観察し・触れる」程度ですけれど、年長さんになっていくに連れ、「どうしたらいいのだろう?」と目的意識を持って育てていくことになります。図鑑などで調べることもあるかも知れませんし、周りの大人に質問するかも知れません。
 「食べ物を得る」だけではない活動として食育があるわけですが、様々な「学びへのつながり」になってくれることを期待しています。  

一緒に泥まみれ

3月 15th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (一緒に泥まみれ はコメントを受け付けていません。)
 日射しが春めいてきたことに合わせて、子ども達の遊びも少しずつ変化してきたようです。今日は、年長さんと年中さんが砂場で…裸足で遊んでいました。「足湯気持ちいい〜」と言っていたので、「足湯ごっこ」ということですね(文字通り)。
 まぁ、砂場ですので実際は「名のない遊び」で充分楽しいと思うのですが、名前が付くと伝播が早いですね。あっという間に子ども達が集まって来ました。早速靴と靴下を脱いで入湯?入泥?です。ウチらしいと思うのは、「脱いだ靴を並べている」ところですね。ワクワクして飛び込んだのでしょうけれど、靴の後始末はしっかりしているのでした。
 「足に傷のある子はいないかな」とか若干の心配はあったのですが、「これも子どもたちなりの、春の迎え方だな」と、微笑ましく見ておりました。
 そして、今日は卒園式の総練習を行ったのですが、そこに出てくるのですね、「みんなで一緒に、砂場で遊んだ」という歌が。「一緒」というのがどの程度なのか、どの季節なのか、何をしたのか。いずれも具体的に語られてはいませんが、ここ数日の様子は、まさに「歌詞に出てくるまま」だと思いました。年長さんは、卒業すると不思議なほどにパタッと動きが変わります。「今日のメンバーで今日の遊び」は本当に一期一会。「泥まみれ」が思い出の一コマになってくれたら、嬉しいです。

自分を語る

2月 20th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (自分を語る はコメントを受け付けていません。)
 今日は、お遊戯会明けですけれど、「当日には壇上に登れなかったけれど、今日は来られた」子もいて、「じゃ、もう一回だけミニお遊戯会をやろう」という話が出たようです。確かに年長組にとっては、最後の大行事。少し後悔は残るでしょうけれど、思いを遂げさせてあげたい。そう思って「分かりました、園長先生、見に行かせていただきます」となりました。
 実際のところ「本番を終えた」というのは、もう「ピークは越えた」ということです。最高の出来映え…にはなりません。しかし、「今日は来られた」子達の、その事情も知っておりますので「分かりました」と答えたのです。
 ちょうど卒園記念品に使う写真を撮りに来てくれたお兄さんと、二人だけの観客。そこに向かって、子どもたちは堂々と曲を演奏してくれました。本番の日というのは、カメラマンは勿論、私も照明係で結構ピリピリとしておりますので、一人ひとりの表情や仕草もゆっくり見ながら、聞かせてもらいました。
 そして自然と思ったのです。「この曲を選んだ先生の、その思いや願いを子どもに聞かせたい」と。もちろん下打ち合わせはなかったのですが、二人の担任それぞれの思いを語ってくれました。生の気持ちを言葉にしていますから、子どもたちがどれだけ「ピンときた」かは分かりません。けれど、彼女たちが人生かけて「私が今まで生きてきて、これが大事!」という事を伝えてくれました。保育者が参考にする本の「お便りの書き方」とかには、「アイメッセージを書きましょう。説明だけでなく、担任の気持ちや願いを書いてみましょう」とありますけれど、それの最たるものだったと思います。
 そう…今から思い返せば、子どもたちにやはり何某かは伝わっていたと思います。「うん、先生いつも言ってるもの」と、子どもが返していましたから。
 これだけしっかりした絆を持っている子どもたち、そして担任たち。解散していく日が近づいてきていますが、日々を楽しみ、人生を楽しんでほしいと思います。

何のための会か

2月 20th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (何のための会か はコメントを受け付けていません。)
 保護者の皆様、先週末は、お遊戯会にあたり、多くの方にお出かけいただき、本当にありがとうございました。そして、たくさんの拍手と笑顔を子どもたちに向けてくださり、ありがとうございました。
 とても昔から行っている行事で(私自身も年長組でやった役を未だに覚えています)、幼稚園の中でも大きな行事なのですが、「子どもにとってどんな価値が=最終的に、あるのか」は、園長としては見失ってはいけないことと考えています。
 子どもたちどうしで何らかを披露しあうのではない。もちろん、子どもたち同志が見ることで「わっ、あれは何だろう。私もさわってみたいな」とか「お兄さんたち、一生懸命だ」とかシンプルに物語を楽しんだり…ということはあります。けれど「会」である以上、「反応をもらう」という要素を落とすわけにはいきません。「体を動かして、あーすっきり」だけではないのです。そのことからして、また「人間は社会性を発達させることで他の生き物よりも繁栄してきた」ことからも、「出演者とお客さん」という関係は人間以外あり得ず、その間で何が行われているか?は極めて「人間らしさ」に関わる問題なのだと思います。
 自分達の踊りがバッチリ決まった。演奏が気持ちよかった。みんなで一つの物語を紡げた。その「舞台上のこと」だけでは完結しない、「会」という形。そこでは「声援や拍手、家に帰ってからの感想やほめ言葉」など「結果や返ってきたこと」が大きな要素を占めています。
 自分は褒められるに値する人間だ。自分は応援されるに値する人間だ。そんな言葉にならなくとも、多くの方からの拍手や笑顔は、そういったメッセージを送っています。子どもたちに向けられているのは「上手だった、うまくいった」だけではなく、もっと底にある「そこにいること、或いは練習してきたこと、或いは関係を保ってくれていること…」への肯定なのではないか。
 先生の筋書き通りにいくことが、拍手になるのではない。子どもたちがそこへ立ち、何か表現することそのもの…いや本当は、もっと根底にある「表現しようとした事自体」を捉えて評価しているのです。当日は何人かのお休みもありましたが、彼らだって同じく懸命でした。たまたまタイミングが悪くて出席できなかっただけです。そんな子にも等しく拍手を送りたい。「あなたの存在を認めているよ」と。
 ああ、そうか。「表現する」というのは、「誰かに縁を紡ごうとする姿」なんだ。だから私たちはそれを受け止めたいし、広げたいし、つなげたい。縁が繋がり、広がることは、たぶん「力強く、人間らしく生きていく」ことにつながっているから。

明るくない。

2月 14th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (明るくない。 はコメントを受け付けていません。)
 今日は涅槃会の集い(正しくは15日なのですが)を行いました。実はここ数年、お寺には仏像が急増しておりまして、その中には「涅槃像」もありますので、その紹介をしようと考えていました。
 いまどき、スライドを作るのは簡単なのですね。確かに「素人さん」がスライドどころか動画を編集して稼いですらいるというのですから。
 ということで、「ねはん」に関するオリジナルのスライドを作って上映しました。子ども達にも、きっと「寝ている仏さま」として、印象に残った…かな?と思います。東南アジアの涅槃仏って、結構それぞれ個性的ですよ。
 さて、その中で「お釈迦様は、幸せになるために3つのお約束があるとお話されました。明るく・正しく・仲良くです」ということを繰り返し伝えました。涅槃会=お釈迦様とのお別れにおいては、「師匠がいなくても自ら守ることが大切。自律あっての自立です」というのが本筋なのですが、「何を守るの?」ということで触れたのです。
 会が無事に終わり、各保育室へ戻っていったのですが、最後の方で誰かが人をドーンと押したようです。自分の力が知りたくて・相手の反応が知りたくて・何となく…してしまう事があるのです。
 すかさず先生が目に留めて聞きました。「もしも先生が、お隣の先生にドーンってやったら、どうかしら?」と。

 子どもから帰った返事は「明るくない」。

何ともドンピシャだと思いました。私が話していたのは「お休みの子がいるとして、”あの子、本当に病気なのかな、きっと嘘だよね〜”とか、ありもしないディスをしている例を挙げたのですが、きっと何か「自分の意思を表明するのに相応しくないやり方だ」と感じたのでしょうね。
 そうです、「正しい」は内容であるのに比べ、「明るい」はやり方です。自分の何かの意思を表明するのは構わない。けれど、やり方も大切(それによって相手の受け取りが変わりますから)。こういうことって、遙か昔から変わっていないのですね。

お参りすること

1月 31st, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (お参りすること はコメントを受け付けていません。)
 引き続き「やもりん」ばなしです。
 早速お参りに行く、というので私も付いて行きました。お墓は、普段「立ち入り禁止ゾーン」…というか子どもが自ら足を運ぶ場所ではありませんので、そこでどんなことを感じるのかな?について、興味もありました。
 入るとすぐに、指を口にあてて「シー」としています。やはり「特別な場所」という感じがあるのでしょうね。そして霜柱(今朝も大量です)をザクザク踏みながら歩いて行きます。子ども達が選んだのは、大きな桜の根元でした。
 「ああ、これは桜の木だね」と言うと、「今は花がないけどね」「やもりんの木っていう名前にしよう」…いろんな思いが沸いてくる様子でした。
 そしてみんなで手を合わせて、お祈りしました。「今日も私達みんな、楽しく過ごせますように」と。暫くして、担任の先生が言いました「さぁ、今日も一日元気に行こう!」。「おー!」という感じでみんな戻っていきました。
何かの光景に似ている…

「これは、朝、お仏壇にお参りして出かけるのと、同じではないか?」

笑い事じゃありません。先生も子ども達も、まったく自然にそうなっていました。みんなで気持ちを一つにし、お参りして、気持ちを切り替えるきっかけにする。まさしく、「朝のお参り」にはそのような働きがあるのです。
 現代は「思い通りになることが増えた」ゆえに「気持ちの切り替え、諦め」が付きにくくなっており、それゆえ苦しんでいる人が多いと感じます。。けれど、昔の人だって、やはり何らかの手段で気持ちを切り替えていたのではないかと思います。その一つとして、「朝、お仏壇にお参りしてから出かける」があると思うのです。

やもりんの死

1月 30th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (やもりんの死 はコメントを受け付けていません。)
 多分はじめてではないでしょうか、タイトルに「死」という字を入れたのは。園長としては、一面辛い事でもあり、また他の一面では「ついにその機会が来たか」という思いでもあります。
 年長さんがクラスの一員として育てていた、「やもりん」が死んでしまいました。先週は寒かったこともあり、いくつかの条件が重なってしまったようで、気がついたら既に事切れていたそうです。
 子ども達も、先生も結構がっくり来ている様子でした。みんなでエサを探し、飼い方の注意を調べ、じっくり観察させて貰い…お揃いの名札も作ってありました。
 お寺のお墓に場所を決めて、みんなで埋葬しました。「この木の所だから、いつでも分かるね」「毎日、手を合わせに行こう」ということになっているんだそうです。
 ああ、本当に「クラスの一員」のように考えていたんだな…。一生懸命心配し、お世話したけれどもダメだったんだ。みんなでその現実を受け入れたのだな。とても価値ある経験をしたと思います。

 明照幼稚園が根っこに持っている「仏教の教え」は、「自然の仕組みやことわりを知り、それに対して素直であれ」、と言っているように思います。この世には、いくつもの「苦しみ」=「思い通りにならないこと」があります。もちろん、思い通りになる事も、少しはある(勉強すれば試験の得点が上がりやすい、とか)。どうも西洋文明は、この「思い通りになる」ことを至上の価値として、「そうでないこと」に対して素直で…謙虚でいられないように見受けられます。

 思い通りにならないことは、ある。けれど、それを受け止めることはできる。その懐はある。

単純ではありませんね。もちろん、最初から全てを諦める必要はありません。
 多分仏教とは、「思い通りにならないことを、それとして潔く受け止める。そして、自分が何とかできる事について、注力せよ」という教えではないかと思います。
 いつかも紹介したかも知れませんが、改めて「ニーバーの祈り」を紹介します。

神よ、
我に
変えられるものを変える勇気と、
変えられないものを受け入れる心の静けさと、
変えられるものと変えられないものを見分ける知恵を
お与えください

ま、仏教では「神に与えられなくとも、正しい行いと修行をしていれば、身につきますよ」と言っていますけれど。それはイコール「お覚り」でいいんじゃないかと。

迷った時には

1月 20th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (迷った時には はコメントを受け付けていません。)
 今日は12月・1月生まれのお誕生日会でした。司会の先生も話していましたが、ちょうど「大寒」にあたり、「来週には雪が降るかも知れませんね」などとお話していました。
 私からは「赤ちゃんが笑うようになる(学習の)しくみ」をお話しました…と言っても、「周りが笑顔で赤ちゃんを囲むことで、自分から笑顔を作れるようになります。周りの笑顔があるから、赤ちゃんも笑顔を出すのです」という、まさに「学習」について。「子ども達が身に付けている笑顔は、親御さんはじめ周りのみなさんから頂いたのですよ(周りから貰えなかったら、笑顔を出すようになりません)」という話でした。
 年度も終わりが見えてきて、子ども達もすっかり幼稚園生活に慣れた様子。年少さんの「3クラス合同」も、楽しんでいる姿が見られました。子ども達が育っていくのは、本当に嬉しいものです。
 そして、今日お配りした「お誕生日会参加おまけ」は、軽い話ではありませんが、厳選してのものでありました。

結果が読めない時には、筋を通しておくことが、未来の自分を支えてくれることになるだろう

というものなのですが、最近とっても思い当たるのです。特にお坊さんとして人様にお話する時や、いろんな原稿を書くときなど。「自分、本当にこれを実践しているのか?」「イザという時にできるのか?」という不安を感じるのです。
 だからやっぱり、「日々の積み重ねなのだろう」と思うのです。「イザ」という時に自然と出るほどに自分を慣れさせる。いちいち「万が一の時に慌てないように」とか思考しないでも、反射的に行動できるほどに。
 「結果が読めない時には」と言っても、それは実際「未来すべて」でしょうよ。不安でビクビクしているときこそ、昔から言われていることや原則を貫く。不安な心に判断させてオロオロするより、よっぽど爽やかに生きられるような気がします。
 去年生まれた子が成人の時、私はすでに70歳。一人前になるまで、ちゃんと支えてあげられるだろうか。私はどこまで見届けられるのだろう。抱っこして安心しきった寝顔を見る度、そんな思いに駆られています。