明照幼稚園

続イベントデザイン

9月 21st, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (続イベントデザイン はコメントを受け付けていません。)
 先生方の「おかいものごっこ」への会議、再び開かれました。前回では大筋が決まったものの、具体的な事柄が未定だったのです。
 「ねらい」と「概要」をベースに意見の出し合いが始まります。「まず、デザインの項目をハッキリしましょう。①場と時間、②コミュニケーションの形、③物の扱いについて、でいいですか?」おお、なかなかスマートな進め方です。いろんな事についてワイワイ話していくなかで自然とまとまることも多いのですが、項目が明確だと、「一カ所決まるとドミノ倒し」で決めやすいのです。いつの間に会議のやり方を身に付けたのか…。感心して聞いていました。
 一カ所が決まると、それを起点にいろんな意見が出てきます。「じゃ、こういう可能性もあるよね」とか多少のオーバーランもありますが、聞いていても想像しても楽しい話。それぞれの経験をもちより、細部が詰められていきました。
 結果、具体的なことが決まりました!。例年とはかなり異なった形と位置づけになります。もちろん初の試みですから、いろんな問題点が発生するかも知れませんが、とにかくみんなでワクワクしています。学年だよりなどでもお知らせするかと思いますが、どうぞお楽しみに。

「敬」老について。

9月 12th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (「敬」老について。 はコメントを受け付けていません。)
 昨日発行の「幼稚園だより」でもふれ、各学年の「今月のお約束」でも取り上げている「敬老」という態度、あるいは思考・また運動について、ツラツラと考えてきました。
 まずは辞書的に引いてみましょう。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」と「国民の祝日に関する法律」にあります。もうズバリと。法律で決まってる。
 「だより」でも「父の日・母の日」や「お盆」との関連を探ろうとしていたのですが、これは決定的に異なるのですね。「社会につくしてきた」が決定的に違うのです。他は全部「家庭内・家族関係における」なのに、これだけが。
 まあ、「国が定める法律」だから当然と言えば当然のこと。家庭内のことに法律が踏み込むのは物凄く危険なことと考えられていますから、あくまで「社会との関わりにおいて」定めるのですね。
 そう、さっきの4つのうち、これだけが法律に規定されている(祝日)なのです。因みに父の日・母の日ともにアメリカ発祥。お盆は多分、中国の影響かと思います。7世紀初頭の話かと。「おっと…」と思い出すのは「こどもの日」。これは同じく「国民の祝日」ですね。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」と規定されています(余談ですが、”母”だけでいいのかな…どこかから突かれないかな…心配です)。

 法律というのは「既にそれが実在し、そのことで社会の維持に困難を来す」ことの排除を狙う訳ですから、昭和20年代ですでに「お年寄りの扱い」について実際の問題があり、また問題意識があったことが覗えます。
 お御堂参りの参考にしようと思って昔話を引けば、「姥捨て山」ばかりがヒットする。「昔むかし、あるところにお爺さんとお婆さんがおりました」で始まる話は多いのですが、その必然性って、あまり高くないような気がするのです。「昔々、ある若い夫婦がおりました。旦那は山へ芝刈りに、妻は川へ洗濯に行きました」でも物語として成立する…「老人だから桃太郎に云々」はないのではないか?(笑)
 しかし「若い夫婦がおりました。仲良く幸せに暮らしておりました」では物語になりません。トリックスターも不思議な力も、お地蔵さんだって出る幕がない。「貧乏・年より」というのは、物語のための環境というか舞台になっている気がしてなりません。何とか太郎とか一休さんとかも似たような者。「社会のメインストリームで成功している人」は、伝記にはなるでしょうけれど昔話にはならなさそう(伝記の実態は、”若い頃の苦労話”でしょう)。
 老い、というのは仏教では「四苦八苦」の2番目ですから、相当根本的な「苦=思い通りにならないこと」です
。「そのことを知れ、身に付けろ。そこから”余計な想い”を捨ててゆくのだ」というのが多分(笑)仏教だと思います。
 ともあれ、無限に深掘りしてしまいそうなので、ここまでで。
 今日は年少さんの「敬老はがき」お手伝いで写真を撮りました。みんな幼さが抜けてきた感じです。

イベントのデザイン

8月 31st, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (イベントのデザイン はコメントを受け付けていません。)
 この写真は今年の「おみせやさんごっこ」…竹早教員保育士養成所の学生さん方に来て頂いた時のものです。ご存じの方も多いと思いますが、幼稚園主催でも2学期には「おかいものごっこ」が行われます。けれど、今年はいまのところ「日程未定」…決めかねている所があるのです。
 「おかいものごっこ」というのは、そもそも「廃品を使って遊ぼう」というのが出発点で、多くの実践があり、かなりの回数行われてきた行事です。そして、恐らく「色んな意味や見方ができる」ということが明らかになってきたのです。また、今まで保護者の方々からご意見やご感想もいただいて参りました。
 そこで、「おかいものごっこをどうデザインするか?」を去年から先生方と検討しているのです。もちろん、今までどおりに行う事もできるでしょう。けれど、違う視点から、今までとちょっと異なるねらい=「こんな子どもの育ちに繋がる」にクローズアップしたものへ「アレンジしてみようか?」と考えているのです。
 そのため、改めて「おかいものごっこ」で、子ども達はどんな体験をしているのか、どんな意味があるのか…というのをそれぞれで考え、「コレが大事だと思う」「ここを大切にしたい」という話し合いを重ねてきました。
 で、まだ完成形は見えないのですが、「今までと違う、おかいものごっこ」になることは間違いなさそうです(どの程度か、も未定ですが)。それぞれの学年・クラス・一人一人にとって「どんな学びとなり得るのか」を予想し、いろいろ種を仕込んでいこうと考えています。
 …乞うご期待!

新幹線で、山形へ

8月 7th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 - (新幹線で、山形へ はコメントを受け付けていません。)
 みなさま、夏休みいかがお過ごしでしょうか。幼稚園の畑では、新しくメロンの実がひとつなっています(まだ未熟ですので今は食べられません)。オクラもだいたい「いい大きさになったな」と思うと誰かが収穫するという塩梅。「今日とるんだ」ではなく「(野菜の)今日とって、の声に対応してとる」という感じです。何年か前の大葉もまた出ていますので、少量お使いの時はどうぞお寄り下さい。
 さて、昨年度に引き続き、山形県の認定子ども園へ行って参りました。去年と同じ所です。前回の話が中途半端だったのか、「二年連続して同じ人の話」というのは、色んな意味で難しい所があるのですが、ご縁もあり、お伺いしました。
 今回は「学習」というプロセスと、その際に引っかかりやすい事として、「練習・失敗」について触れました。参考にしたのは『GRIT』と『レジリエンスの鍛え方』の二冊が中心。その中に、自分の体験談を大きく盛り込むことにしました。
 自分の幼児期の記憶って、そんなに沢山のエピソードはないのですが、今になって思い出すと、なかなか味わい深いものです。よく「満足した記憶は忘れる。未達成の記憶(恐れ・悔しさなど含む)は忘れない。課題として残っているから」と言われるのですが、今回のエピソードは2つとも「良かったね」という話。ということは、よっぽど自分の心に深く刻まれていたのだろうな…と、改めて思います。
 それらについては、改めて「第2回入園説明会」の「ミニ講演会」でお話しようと思います。全く一般的なエピソードではない(どの家庭でも再現できるものではない)ですが、普遍性はあると思っています。
 にしても。
 認定子ども園ができた時には、「預ける施設なんでしょ・子どもの育ち云々よりも、親のための施設なんでしょ」と見ていたのですが、10年を越えて、「しっかり子どもの育ちを先生方が考えているなぁ」という印象に変わりました。教育面については幼稚園に一日の長があるとは感じますが、勢いがある。研修のための時間と予算も、自治体が確保してくれているようです。実際、町立で幼稚園・保育園・認定子ども園と3種類あるのですが、足並みをそろえて研究をしたり、人事異動で自然な交流もあるとのこと。うらやましい。
 けれど…出生者が年間50人程度、というのはまだ底を打っていないそうです。定住・移住計画も思うように進んでいないとのこと。
 備忘録的に、そのときの資料PDFのリンクを張っておきます。普通は(面倒になるので)あまり公開しないものですが、自分のためにも。

野菜盛りと言えば

7月 10th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (野菜盛りと言えば はコメントを受け付けていません。)
 今日は幼稚園で「みたたまつり」の集いです。私が園長になった10年前と比べてさえ、お盆について「お仏壇がある」「家でやったことがある」という子が減ってきているのを感じます。
 コンセプトは子ども達にも話したのですが、「皆が元気に幼稚園に来られる←ご両親が育ててくれているから←昔は子どもだった=お爺さん・お祖母さんが育ててくれたから←昔はこどもだった=曾祖父母が育ててくれたから…ご先祖様と呼びます」という話をしました。
 子どもが育つ環境として、「より多くの繋がりを持っている」ことはとても大切だと思うのです。世の中の柔軟性(不確実性・理不尽さ含む)に打ちのめされないためにも。「沢山の人の想いが重なって、いまあなた達は育っている」という実感は持たせてやりたいと思います。
 さて、「キュウリの馬、ナスの牛」は定番なのですが、今日は先生が野菜盛りを説明していました。と言っても「これはトウモロコシ、これはインゲン…みんな、夏の野菜なんだよね」と。あのような盛り合わせは、なかなか見る機会もないだろうと思います。
 そんな中、「アルチンボルト」の絵を下駄箱に架けておきました。早速「駅にポスターがあった!」と気付いた子もいました。観察眼が優れている子は、きっと好奇心も強く、その分「楽しいことがたくさんある」ような気がします。アルチンボルトの絵も、「ちょっと見てびっくり、じっくり見てニヤリ」な要素がたくさん隠れています。実物はかなり大きいので、機会がありましたら上野でご覧になるのをお勧めします。

言葉で意識

6月 30th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (言葉で意識 はコメントを受け付けていません。)
 今日は各学年の体操参観で、多くの方にお越しいただきました。ありがとうございます。
 もちろん「子ども達の様子を見る」ことで、「子ども達の育ちの価値観を共有」「成功体験と嬉しさの共有=応援」をはかり、子ども達のより力強い成長につなげていこう…というのが趣旨です(選挙っぽい口調になってる?)。
 私も、もう何年も見ているのですが、今日は「指導の先生から、親御さんへのメッセージ」だな…と思うような台詞がありました。
 この体操の成り立ち。目指していること。子ども達の気持ちを常に見ながら行っていること。運動のねらいと共に、その背景にあるストーリーを、たくさん話していらっしゃいました。
 ということは、特に年長さんにとっては「今後の子育て、体育で迷うことがあったら、この”原点”に立ち返って下さいね…」という意味なのかな、と感じたのです。
 もちろん、今後も引き続きご指導いただきたいと思っています(もしかしたら、毎年同じメッセージは発しておられた?)。けれども、「子どもの様子や願い」を言葉にして渡すことで、受け取った側も「同じ様子理解や願いを持つ」ことはできると思います。それはまるで…

 「信じられる嘘を共有したのが、サピエンスの強みである」(『サピエンス全史』園長のうろ覚え部分)のようです。

 ア…「嘘」というのは「仮説」程度に受け止めています。

本質的に褒める

6月 22nd, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (本質的に褒める はコメントを受け付けていません。)
 何やら難しい感じのタイトルなのですが…話は約2年前から続いているのです。
 時計台のところにある、「アカパンサス」という花。じつはこれ、葉っぱをパキッと折ると汁が出てきて面白いのですが…面白がって葉や茎が沢山折られてしまったことがあったのです。平成27年9月。
 その時は、悲しみと怒りの看板が出ていました。
 そして今年。その時の看板の効果が今でもあるのか、その時のことを覚えてくれている人が多いからなのか、はたまた今年の子達が気付いていないのか、どんな訳かは分かりませんが、折られることなくたくさんの花が咲きました。
 ですから、目に見えることとしては「アカパンサスの花が咲いた」だけなのですが、「葉や茎を折らないでくれてありがとう。元気に伸びて綺麗な花を咲かせられたよ」というメッセージなのです。
 私が「本質的に褒めている」と感じるのはここです。「言われたことを守った」故に褒めたのではなく、「言われていないけれど、するべくようにした」ことを褒めた、ということです。
 くどいですが、「大人に言われたから」ではなく、結果として良いことがおきた。そこを改めて言葉にして子ども達に返していく。なかなかできることでは有りませんね。
 有り難い事に、年少組の子どもが看板に気付いて、「お花からお手紙が来たんだね」と話していたそうです。物言わぬ花たちですけれど、その言葉を聞くことができる。まさしく「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける(古今和歌集仮名序)」です。
 ああ、私は本当にこの仮名序が好きなんです。いま読んでも涙が出る位に。

塗り尽くす!

6月 20th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (塗り尽くす! はコメントを受け付けていません。)

写真の子と話の子はことなります。

 今日は年中さんの活動を近くで見ていました。「すいかのはじき絵」ということで、ある意味「昔ながらの活動」ではあります。先に描くクレヨンは、しっかり濃く色がでており、バッチリ弾いてくれそうな感じです。
 いよいよ絵の具の出番です。こちらは全員が一式持っている訳ではないので、机2台で8人ずつ行っていきます。クレヨンに比べて、絵の具(筆)は軽い力でスーッと塗っていけるのが特徴ですね。色も少し淡くて、確かに対照的です。
 ということで、サッサッと塗りおえていく子がいる一方で、「園長先生、もっと濃く塗りたい」というリクエストがありました。「ん?」と思いつつ、筆に絵の具を直づけ。「これでやってごらん」と渡しました。
 そう。「クレヨンに弾かれないよう、懸命に絵の具を(濃く)塗り重ねていた」のです。「悔しいなぁ、何とかこの色で塗りつぶしたいのに、このこの!」という感じ。くっきり描かれたクレヨンの線は、絵の具を水玉のように弾くばかり。そのうち「紙が危ないな…」を心配するほどになりました。
 暫くは力ずくで「何とか色をのせる!」という感じだったのですが、最後は何だか「やり遂げた…」という感じで、「もういい」と終了宣言。良かったじゃないか。サッと描いてパッと終わるより。これも一つの試行錯誤。よい学びです。

籤という公平性

6月 7th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (籤という公平性 はコメントを受け付けていません。)
 先週末から、年少さんの「机分け」にクジ引きが始まったようです。これもチャレンジングなところがあって、「クジという物を理解できるのか?」を見極めないとできません。そして、「クジ引きでお隣さんが決まっても大丈夫」という判断も。
 今までは、先生がいろいろと子どもの状況を勘案して指定席にしていました。「自分のお印はこれ!」というのは比較的早く理解してくれることもあり、それぞれの距離感も考えて。
 「そうでなくともよい」というのは(多分)、子ども同士のコミュニケーションが洗練されて来たという事なのだろうと思います。「ある程度、どの組み合わせでも大丈夫」という…。
 しかしもう一方で「クジの結果を受け入れる(だけの成長がある)」というのも見極めポイントです。特にいまどき、「自分の意見を言わない」状況は理不尽でもあり、苦痛になりがち。なにせ「生きる力とは、自分の意見を述べることを含む」のですから。
 そこに来て「自分の席は運任せ。どこになるか意見は言えません」ですから。

 けれど思うのです、「これも一種の公平さだな」と。
 もちろん全員の席はあるのです。「外れたら廊下」でもない。全員が同じ「ひとり一座席」なのです。
「先生の近くがいい」「○○ちゃんの隣がいい」…いろんな思いはあるでしょうけれど、ひとまず全員表明せずに、自分で引いた色の机に行く。「行った場所で楽しみましょう」という、ある種余裕のある状態…つまり「大丈夫」…になった、という成長の姿でもあるのです。
 自分の意見を言えないという理不尽はありますが、それ=「机を決めること」にまで拘らなくてもいいのではないかと思います。そういう「時期」があってもいい。けれどそれは一過性のもの。「いつまでも拘らない」は「いつまでも引きずらない」に通じているような気もします。
 「拘りを持つ」こと自体は否定しませんし大切だと思います。しかし、「拘るだけの価値」をどこに見いだしているのか、「拘るだけの価値があるか否か」をどう判断するか?「拘るべきものに拘れているか?」
 私が心の隅に置いている「生きる力」の一つです。

物語と現実と

6月 5th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (物語と現実と はコメントを受け付けていません。)
 今日もお御堂参り。楽しい話、短い話と進めてきて、そろそろ「メリハリをつける」をねらいたい時期です。ま、それでほぼ最終段階なのですけれど。
 そこで選んだ話は「おろかな蛙」身も蓋もないタイトルですが。イソップ童話ですから、もう2500年も前の作品。仏教とほぼ一緒ですか…。
 ストーリーは皆様ご存じの通り、最後に破裂してしまったお腹に絆創膏を貼って、「無理な背伸びはするもんじゃない」と終わる訳ですが、子どもたちはそんな教訓よりも「そこで、お母さん(お父さんというバージョンもあります、念のため)蛙は思いっきり息を吸い込みました。スーハースーハー、そして、ボヨーン」その描写に大喜びです。
 やる度に「スーハー」が増えていくこと、「ボヨーン」の音のおもしろさ、話者の表情など相まって、面白いのでしょうね。こちらも分かっていつつも真剣に、「どう?この位の大きさ?」と、ちょっと苦しそうな声で聞いたりします。
 教訓はともかくとして、印象的だったのは「パチーンと、破れてしまいました」のところ。水を打ったようにシーンとして、「どうなるんだろう?」と…まさに固唾をのんで見守ってくれました。子どもの蛙が治療してくれて一安心。最後に親子で見に行ってエンドのような気もしましたが、「治療しました」で子どもたちも安心したようです。
 さて、この物語。実際に蛙がそんな自殺行為をする訳はないのですが、子どもたちはきっと肌身に感じて心配していたのでしょうね。つまり本気だったのではないかしら。「蛙がそんな事する分けないじゃないか。第一日本語を話すわけないだろう」というのは小学生以降の感性。そのツッコミは成長の証でもあるのですが、幼児にとっては「気持ちを寄せる体験」をした事として大切なのだろうと思います。自分たちが実際に無謀なことをする…というのは(たまに見かけますが)危険も伴います。なのでこうした「物語」を通じて共感し、心情を育てているのではないかと思います。
 現実には、けがをした友達を心配する姿がよく見られます。「自分も痛いときに心配してもらった」というのが一番強い要因であろうとは思いますが、物語を通じて学んだ価値観を現実で復習している、そんな姿にも見えるのです。