明照幼稚園

何のための会か

2月 20th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (何のための会か はコメントを受け付けていません。)
 保護者の皆様、先週末は、お遊戯会にあたり、多くの方にお出かけいただき、本当にありがとうございました。そして、たくさんの拍手と笑顔を子どもたちに向けてくださり、ありがとうございました。
 とても昔から行っている行事で(私自身も年長組でやった役を未だに覚えています)、幼稚園の中でも大きな行事なのですが、「子どもにとってどんな価値が=最終的に、あるのか」は、園長としては見失ってはいけないことと考えています。
 子どもたちどうしで何らかを披露しあうのではない。もちろん、子どもたち同志が見ることで「わっ、あれは何だろう。私もさわってみたいな」とか「お兄さんたち、一生懸命だ」とかシンプルに物語を楽しんだり…ということはあります。けれど「会」である以上、「反応をもらう」という要素を落とすわけにはいきません。「体を動かして、あーすっきり」だけではないのです。そのことからして、また「人間は社会性を発達させることで他の生き物よりも繁栄してきた」ことからも、「出演者とお客さん」という関係は人間以外あり得ず、その間で何が行われているか?は極めて「人間らしさ」に関わる問題なのだと思います。
 自分達の踊りがバッチリ決まった。演奏が気持ちよかった。みんなで一つの物語を紡げた。その「舞台上のこと」だけでは完結しない、「会」という形。そこでは「声援や拍手、家に帰ってからの感想やほめ言葉」など「結果や返ってきたこと」が大きな要素を占めています。
 自分は褒められるに値する人間だ。自分は応援されるに値する人間だ。そんな言葉にならなくとも、多くの方からの拍手や笑顔は、そういったメッセージを送っています。子どもたちに向けられているのは「上手だった、うまくいった」だけではなく、もっと底にある「そこにいること、或いは練習してきたこと、或いは関係を保ってくれていること…」への肯定なのではないか。
 先生の筋書き通りにいくことが、拍手になるのではない。子どもたちがそこへ立ち、何か表現することそのもの…いや本当は、もっと根底にある「表現しようとした事自体」を捉えて評価しているのです。当日は何人かのお休みもありましたが、彼らだって同じく懸命でした。たまたまタイミングが悪くて出席できなかっただけです。そんな子にも等しく拍手を送りたい。「あなたの存在を認めているよ」と。
 ああ、そうか。「表現する」というのは、「誰かに縁を紡ごうとする姿」なんだ。だから私たちはそれを受け止めたいし、広げたいし、つなげたい。縁が繋がり、広がることは、たぶん「力強く、人間らしく生きていく」ことにつながっているから。

明るくない。

2月 14th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (明るくない。 はコメントを受け付けていません。)
 今日は涅槃会の集い(正しくは15日なのですが)を行いました。実はここ数年、お寺には仏像が急増しておりまして、その中には「涅槃像」もありますので、その紹介をしようと考えていました。
 いまどき、スライドを作るのは簡単なのですね。確かに「素人さん」がスライドどころか動画を編集して稼いですらいるというのですから。
 ということで、「ねはん」に関するオリジナルのスライドを作って上映しました。子ども達にも、きっと「寝ている仏さま」として、印象に残った…かな?と思います。東南アジアの涅槃仏って、結構それぞれ個性的ですよ。
 さて、その中で「お釈迦様は、幸せになるために3つのお約束があるとお話されました。明るく・正しく・仲良くです」ということを繰り返し伝えました。涅槃会=お釈迦様とのお別れにおいては、「師匠がいなくても自ら守ることが大切。自律あっての自立です」というのが本筋なのですが、「何を守るの?」ということで触れたのです。
 会が無事に終わり、各保育室へ戻っていったのですが、最後の方で誰かが人をドーンと押したようです。自分の力が知りたくて・相手の反応が知りたくて・何となく…してしまう事があるのです。
 すかさず先生が目に留めて聞きました。「もしも先生が、お隣の先生にドーンってやったら、どうかしら?」と。

 子どもから帰った返事は「明るくない」。

何ともドンピシャだと思いました。私が話していたのは「お休みの子がいるとして、”あの子、本当に病気なのかな、きっと嘘だよね〜”とか、ありもしないディスをしている例を挙げたのですが、きっと何か「自分の意思を表明するのに相応しくないやり方だ」と感じたのでしょうね。
 そうです、「正しい」は内容であるのに比べ、「明るい」はやり方です。自分の何かの意思を表明するのは構わない。けれど、やり方も大切(それによって相手の受け取りが変わりますから)。こういうことって、遙か昔から変わっていないのですね。

お参りすること

1月 31st, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (お参りすること はコメントを受け付けていません。)
 引き続き「やもりん」ばなしです。
 早速お参りに行く、というので私も付いて行きました。お墓は、普段「立ち入り禁止ゾーン」…というか子どもが自ら足を運ぶ場所ではありませんので、そこでどんなことを感じるのかな?について、興味もありました。
 入るとすぐに、指を口にあてて「シー」としています。やはり「特別な場所」という感じがあるのでしょうね。そして霜柱(今朝も大量です)をザクザク踏みながら歩いて行きます。子ども達が選んだのは、大きな桜の根元でした。
 「ああ、これは桜の木だね」と言うと、「今は花がないけどね」「やもりんの木っていう名前にしよう」…いろんな思いが沸いてくる様子でした。
 そしてみんなで手を合わせて、お祈りしました。「今日も私達みんな、楽しく過ごせますように」と。暫くして、担任の先生が言いました「さぁ、今日も一日元気に行こう!」。「おー!」という感じでみんな戻っていきました。
何かの光景に似ている…

「これは、朝、お仏壇にお参りして出かけるのと、同じではないか?」

笑い事じゃありません。先生も子ども達も、まったく自然にそうなっていました。みんなで気持ちを一つにし、お参りして、気持ちを切り替えるきっかけにする。まさしく、「朝のお参り」にはそのような働きがあるのです。
 現代は「思い通りになることが増えた」ゆえに「気持ちの切り替え、諦め」が付きにくくなっており、それゆえ苦しんでいる人が多いと感じます。。けれど、昔の人だって、やはり何らかの手段で気持ちを切り替えていたのではないかと思います。その一つとして、「朝、お仏壇にお参りしてから出かける」があると思うのです。

やもりんの死

1月 30th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (やもりんの死 はコメントを受け付けていません。)
 多分はじめてではないでしょうか、タイトルに「死」という字を入れたのは。園長としては、一面辛い事でもあり、また他の一面では「ついにその機会が来たか」という思いでもあります。
 年長さんがクラスの一員として育てていた、「やもりん」が死んでしまいました。先週は寒かったこともあり、いくつかの条件が重なってしまったようで、気がついたら既に事切れていたそうです。
 子ども達も、先生も結構がっくり来ている様子でした。みんなでエサを探し、飼い方の注意を調べ、じっくり観察させて貰い…お揃いの名札も作ってありました。
 お寺のお墓に場所を決めて、みんなで埋葬しました。「この木の所だから、いつでも分かるね」「毎日、手を合わせに行こう」ということになっているんだそうです。
 ああ、本当に「クラスの一員」のように考えていたんだな…。一生懸命心配し、お世話したけれどもダメだったんだ。みんなでその現実を受け入れたのだな。とても価値ある経験をしたと思います。

 明照幼稚園が根っこに持っている「仏教の教え」は、「自然の仕組みやことわりを知り、それに対して素直であれ」、と言っているように思います。この世には、いくつもの「苦しみ」=「思い通りにならないこと」があります。もちろん、思い通りになる事も、少しはある(勉強すれば試験の得点が上がりやすい、とか)。どうも西洋文明は、この「思い通りになる」ことを至上の価値として、「そうでないこと」に対して素直で…謙虚でいられないように見受けられます。

 思い通りにならないことは、ある。けれど、それを受け止めることはできる。その懐はある。

単純ではありませんね。もちろん、最初から全てを諦める必要はありません。
 多分仏教とは、「思い通りにならないことを、それとして潔く受け止める。そして、自分が何とかできる事について、注力せよ」という教えではないかと思います。
 いつかも紹介したかも知れませんが、改めて「ニーバーの祈り」を紹介します。

神よ、
我に
変えられるものを変える勇気と、
変えられないものを受け入れる心の静けさと、
変えられるものと変えられないものを見分ける知恵を
お与えください

ま、仏教では「神に与えられなくとも、正しい行いと修行をしていれば、身につきますよ」と言っていますけれど。それはイコール「お覚り」でいいんじゃないかと。

迷った時には

1月 20th, 2018 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (迷った時には はコメントを受け付けていません。)
 今日は12月・1月生まれのお誕生日会でした。司会の先生も話していましたが、ちょうど「大寒」にあたり、「来週には雪が降るかも知れませんね」などとお話していました。
 私からは「赤ちゃんが笑うようになる(学習の)しくみ」をお話しました…と言っても、「周りが笑顔で赤ちゃんを囲むことで、自分から笑顔を作れるようになります。周りの笑顔があるから、赤ちゃんも笑顔を出すのです」という、まさに「学習」について。「子ども達が身に付けている笑顔は、親御さんはじめ周りのみなさんから頂いたのですよ(周りから貰えなかったら、笑顔を出すようになりません)」という話でした。
 年度も終わりが見えてきて、子ども達もすっかり幼稚園生活に慣れた様子。年少さんの「3クラス合同」も、楽しんでいる姿が見られました。子ども達が育っていくのは、本当に嬉しいものです。
 そして、今日お配りした「お誕生日会参加おまけ」は、軽い話ではありませんが、厳選してのものでありました。

結果が読めない時には、筋を通しておくことが、未来の自分を支えてくれることになるだろう

というものなのですが、最近とっても思い当たるのです。特にお坊さんとして人様にお話する時や、いろんな原稿を書くときなど。「自分、本当にこれを実践しているのか?」「イザという時にできるのか?」という不安を感じるのです。
 だからやっぱり、「日々の積み重ねなのだろう」と思うのです。「イザ」という時に自然と出るほどに自分を慣れさせる。いちいち「万が一の時に慌てないように」とか思考しないでも、反射的に行動できるほどに。
 「結果が読めない時には」と言っても、それは実際「未来すべて」でしょうよ。不安でビクビクしているときこそ、昔から言われていることや原則を貫く。不安な心に判断させてオロオロするより、よっぽど爽やかに生きられるような気がします。
 去年生まれた子が成人の時、私はすでに70歳。一人前になるまで、ちゃんと支えてあげられるだろうか。私はどこまで見届けられるのだろう。抱っこして安心しきった寝顔を見る度、そんな思いに駆られています。

カテイが見えますか

11月 7th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (カテイが見えますか はコメントを受け付けていません。)
 いま、幼稚園では来週の「お買い物ごっこ」に向けた活動が盛んです。その中で、保護者参観日がありました。子ども達、親御さんがお越しになると多少なりともバイアスがかかるものです。家で会うときはそんなことないでしょうに、場所が違うと距離感も変わるのですね。面白いものです。
 さて、写真は年長組での姿。今年は徹底的に「コミュニケーションとして・プロセスとして」見ていこうと考えていますので、子ども達のごく近くで、相談している様子や分担して作ってゆく様子などがよく見えたのではないかと思います。
 「それぞれの意見を最大限活かす」…言うは易く行うは難しの代表ですが…を、「トコトン行ってみましょう」で、「一クラスで何個もの店舗ができる」というケースもあるようです。しかし、そうして「一人一人が看板を背負う」というのも、今年の形だからできること。「自分達の力でやり遂げる」がテーマなのですから。
 ですから、「成果物」として「店頭に並んだもの」だけを見てしまうと、或いは「??」になるかも知れません。特に昨年までの「おかいものごっこ」をご存じの方は。ゴメンナサイ。
 けれど、まさに「参観でしか見られない、子ども達のリアルなやり取り・責任感・協調性」は、捉えて頂けたのではないかと思います。
 「大人は、過程を褒めることができる」と言います。逆上がりなどは典型的ですね。おおよそ、「出来上がった物」を褒めるより、「作る過程」を褒めた方が、ネタが多くなりそうで、面白そうじゃありませんか?

三枚のお札考

10月 30th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 行事 - (三枚のお札考 はコメントを受け付けていません。)
 今日はお御堂参りで「銀杏が風で随分おちましたね」というお話をしました。先日、年少組の子が「拾いたい〜」との事で、慌ててトングを用意して集めて貰いました。
 朝、お母さんとの雑談の中で、「私が小学生の頃は、学校で拾って洗い、お手伝いをした子は食べられたんですよ」というお話を伺いました。実は今でも、お寺の裏では水に漬けた銀杏が沢山あります。銀杏については子ども達もよく知っていて、「剥くと殻があるんだよ」「中身は緑色なんだよ」と、知識を披露してくれました。
 さて今日は「三枚のお札」。「山姥が出てくるから、怖いと思ったら、お隣の子の手を握ってね。そうすれば多分大丈夫だから」と前振りをしておきましたが…大丈夫でしたね(笑)。
 お話としては皆さんよくご存じのものですが、私が気になったのは「結局、拾いに行った栗はどうしたの?」ということです。なので、そこはオリジナルで「一生懸命逃げてきたので、栗は落としてしまった。後日和尚さんと一緒に拾いに行きました」という結論にしました。
 元々のお話では触れられていないので、「そんなことは本筋と関係なく、どうでも良い」のでしょうけれど、空想遊びとして。命の一大事だというのに、「栗を惜しんだばかりに、山姥の家に戻った」り、「落としてしまった栗を拾っている間に捕まった」はあり得ないでしょうけれど、万が一「目先の事に目がくらんでしまって、優先順位を間違える」ことはイカン!と思ったのです。つまり避難訓練における「戻らない」ですな。
 昔話は、できるだけオリジナルで語るのが良いのだろう…とは思うのですが、時々現代の感覚で自由なツッコミを入れると面白い、ということです。きっと「読書へのアニマシオン」とか「宮川俊彦(とっちゃまん)先生」とか勉強していたのが、私のベースにあるのでしょう。
 今はまた、秋の花が大きなお池を彩っています。黄色いのはツワブキ、そして写真の可憐な花は「ホトトギス」と言います。なんでも「他の植物との競争に弱いため、鉢植えに向いている」そうですが、ウチでは他の植物に混ざって咲いています(植木屋さんの腕によるのかな?)。子ども達がとても関心を示したそうで、慌てて調べてみました。良かったらどうぞ、放課後にでもお越し下さい(戸は閉めて下さいね)。

みんなで見直そう

10月 18th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | - (みんなで見直そう はコメントを受け付けていません。)
 今日は水曜日で子ども達は午前保育…だったのですが、先生方はその後、研修を行いました。29年になって「幼稚園教育要領」が改訂されたので、それへの対応を考えているのです。今回、大きな目玉は「幼稚園教育において育みたい資質能力および”幼児期のおわりまでに育ってほしい姿”」として10の項目が示されたことです。
 従前は「5領域」と呼ぶ、「健康・人間関係・環境・言葉・表現」の項目で示されていたのですが、やや横断的に、そして並べ替えられての提示をされました。
 内容的には大きく変わるものではないと思うのですが、「子どもの姿」や「育ち・願い」の視点・整理の仕方が少し変わるのかなと捉えています。
 幼稚園では、日々カリキュラムをたてて保育を行っていますが、それははやり定期的に見直す必要があるのだろうと思います。そして、園長が入園説明会などでお話しする「明照幼稚園のものの考え方・大切にしていること」も見直す必要がある。
 今日は幼稚園の教育目的である「人生を楽しみ、主体的に社会を作っていく子ども」ということと、目標の1つである「器用に生活できる」という文言について、職員全体でイメージの共有を行いました。このような事は、やはり時折行うべきで、年度初めに施政方針として話してはいるのですが、「分かっておいてね、あとは各自で」的な扱いの部分もあり、改めてそれぞれの理解や疑問点を聞いていくと、イメージがより明確になったり、他のこととの繋がりが見えたりするのです。
 ここから日々の保育への組み立ては、「抽象的→具体化」の長い道のりですが、「ここはぜひ園として押さえよう」を共有することで、却って判断基準が明確になり、自由度が高くなることも期待しています。足腰を固めるような感じでしょうか。
 まだ時間のかかる作業とは思いますが、文科省の考える幼児教育も理解し実践しつつ、明照幼稚園の大事にしてきたことは守っていきたいと考えています。

続イベントデザイン

9月 21st, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (続イベントデザイン はコメントを受け付けていません。)
 先生方の「おかいものごっこ」への会議、再び開かれました。前回では大筋が決まったものの、具体的な事柄が未定だったのです。
 「ねらい」と「概要」をベースに意見の出し合いが始まります。「まず、デザインの項目をハッキリしましょう。①場と時間、②コミュニケーションの形、③物の扱いについて、でいいですか?」おお、なかなかスマートな進め方です。いろんな事についてワイワイ話していくなかで自然とまとまることも多いのですが、項目が明確だと、「一カ所決まるとドミノ倒し」で決めやすいのです。いつの間に会議のやり方を身に付けたのか…。感心して聞いていました。
 一カ所が決まると、それを起点にいろんな意見が出てきます。「じゃ、こういう可能性もあるよね」とか多少のオーバーランもありますが、聞いていても想像しても楽しい話。それぞれの経験をもちより、細部が詰められていきました。
 結果、具体的なことが決まりました!。例年とはかなり異なった形と位置づけになります。もちろん初の試みですから、いろんな問題点が発生するかも知れませんが、とにかくみんなでワクワクしています。学年だよりなどでもお知らせするかと思いますが、どうぞお楽しみに。

「敬」老について。

9月 12th, 2017 | Posted by Sato in 保育論 | 日々の姿 - (「敬」老について。 はコメントを受け付けていません。)
 昨日発行の「幼稚園だより」でもふれ、各学年の「今月のお約束」でも取り上げている「敬老」という態度、あるいは思考・また運動について、ツラツラと考えてきました。
 まずは辞書的に引いてみましょう。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」と「国民の祝日に関する法律」にあります。もうズバリと。法律で決まってる。
 「だより」でも「父の日・母の日」や「お盆」との関連を探ろうとしていたのですが、これは決定的に異なるのですね。「社会につくしてきた」が決定的に違うのです。他は全部「家庭内・家族関係における」なのに、これだけが。
 まあ、「国が定める法律」だから当然と言えば当然のこと。家庭内のことに法律が踏み込むのは物凄く危険なことと考えられていますから、あくまで「社会との関わりにおいて」定めるのですね。
 そう、さっきの4つのうち、これだけが法律に規定されている(祝日)なのです。因みに父の日・母の日ともにアメリカ発祥。お盆は多分、中国の影響かと思います。7世紀初頭の話かと。「おっと…」と思い出すのは「こどもの日」。これは同じく「国民の祝日」ですね。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」と規定されています(余談ですが、”母”だけでいいのかな…どこかから突かれないかな…心配です)。

 法律というのは「既にそれが実在し、そのことで社会の維持に困難を来す」ことの排除を狙う訳ですから、昭和20年代ですでに「お年寄りの扱い」について実際の問題があり、また問題意識があったことが覗えます。
 お御堂参りの参考にしようと思って昔話を引けば、「姥捨て山」ばかりがヒットする。「昔むかし、あるところにお爺さんとお婆さんがおりました」で始まる話は多いのですが、その必然性って、あまり高くないような気がするのです。「昔々、ある若い夫婦がおりました。旦那は山へ芝刈りに、妻は川へ洗濯に行きました」でも物語として成立する…「老人だから桃太郎に云々」はないのではないか?(笑)
 しかし「若い夫婦がおりました。仲良く幸せに暮らしておりました」では物語になりません。トリックスターも不思議な力も、お地蔵さんだって出る幕がない。「貧乏・年より」というのは、物語のための環境というか舞台になっている気がしてなりません。何とか太郎とか一休さんとかも似たような者。「社会のメインストリームで成功している人」は、伝記にはなるでしょうけれど昔話にはならなさそう(伝記の実態は、”若い頃の苦労話”でしょう)。
 老い、というのは仏教では「四苦八苦」の2番目ですから、相当根本的な「苦=思い通りにならないこと」です
。「そのことを知れ、身に付けろ。そこから”余計な想い”を捨ててゆくのだ」というのが多分(笑)仏教だと思います。
 ともあれ、無限に深掘りしてしまいそうなので、ここまでで。
 今日は年少さんの「敬老はがき」お手伝いで写真を撮りました。みんな幼さが抜けてきた感じです。